「イラストとマンガ」カテゴリーアーカイブ

サモンコール星人帝国〔02〕

 飲み物を飲んでいるサモンコール星人と、「グレイ・タイプ」の宇宙人です。

 「グレイ・タイプ」というのは、宇宙人像としては現代を代表するものなんだそうです。とはいえけっこうむかしから見かけていたなという感もあります。

 あんまり「可愛げ」が感じられないので私は好きではありません。わりとすぐに飽きられるのでは、というのが私の見立てでしたけど、全然そんなことはなくて今に至るまで「宇宙人といえばグレイ」みたいな風潮であるようです。

 当ブログにおける「グレイ・タイプ」は、ちょっと可愛くしたいなってことで、リング状のものを体にあしらってみました。

サモンコール星人帝国〔01〕

 サモンコール星人と呼ばれる宇宙人さんのイラストです。

 しばらく続けようと思います。

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 「仁頃(にころ)事件」と呼ばれるUFO騒動に出てきた宇宙人です。

 この事件も古くて1974年のこと。70年代の前半には宇宙人とかUFOの目撃譚が多いような気がしますね。

 「仁頃事件」については「作り話である公算が高い」とされているそうです。

 本日のブログ用イラストは、目撃者の人が残したイラストを参考にしました。

 クセのある文字やクセのある描線をする人だったみたいです。なんでもとんがったカタチにしちゃう人だったのではと私は想像しています。

 そんなわけで、ご本人の残したイラストに“丸み”などを加えて私なりに創作した感じです。

 このお話についてもネットの動画サイトで詳細な情報を得ることができます。目撃者の人の“その後”が興味深かったです。

 宇宙人のスケッチだけなら昔の雑誌で見た覚えがあるんですけど、その後の人生であるとか、家族との軋轢や近所付き合いのようすについては知らなかったというか、知ろうとまでしなかったというか。

 しかし聞いておりますと、なかなか迫ってくるものがあります。

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 以下は日記的な記述です。

 今朝は月イチの側溝そうじの日でした。

 NHK・FM「現代の音楽」。聞き逃しサービスで先週の分を聞きました。サーバから消える直前でした。セルゲイ・プロコフィエフさんの紹介、第2回目。「ピアノ協奏曲 第3番」が良かったです。

 解説の白石美雪さんのお話から、大田黒元雄さんという音楽評論家の存在を知りました。なんでも「大正リベラリズムの人」であるのだそうです。

 ここ最近の私はNHKのラジオ番組の中から主に「聞き逃し配信」でたくさんの番組を聞きました。

 これらに共通するのは「大正時代」です。まずは関東大震災から100年だっていうのがありますね。

 「こころをよむ 文豪たちが書いた関東大震災」においては東京も都心から神奈川までに至る発災当時であるとかその後について、数回に分けてですが、人間性であるとかを深く浮き彫りにしたその内容が伝わってきました。個人的なことで言えば四谷のあたりでの実相でした。多くの避難民が「若葉東公園」に集まったのだとか。考えてみればそうだよなと思うんですが、驚きました。

 若葉東公園なんて知らない。なんていう人でも「迎賓館赤坂離宮」のことはご存知では無いでしょうか。グループサウンズがお好きな方ですとブルーコメッツの「青い瞳」のジャケットとかね。例のキレイな門のまん前。それが若葉東公園です。

 私はデザイナーをしていたサラリーマン時代のお昼休みによくここでスケボーをしていました。今思うと「なんちゅー場所でスケボーしてたんだ」と思いますけど少なくともその頃には「スケボーやっちゃダメ」っていうような表示は無かったです。今はわかりません。お昼も早くに学校が終わった学習院の小学生の子たちが下校していく姿なんかも至近な場所であったんですけど、「あそこで避難生活か………」と思うと感慨もひとしおというか「震災」って重い。リアルだなって思います。一瞬で普段の生活が壊れてしまうのです。

 「大正時代に関するラジオ番組」に戻しますが、「金子みすゞ」さんに関する番組が今、進行中なんですね。「こころをよむ」っていうワク内なんですけど。金子さんが大正の人であったこと自体初めて知ったんですけど、やはり男性ばかりであった詩人の世界に女性として進出していった、その時代背景みたいなものが知れて有意義でした。

 あとは「昭和人物史」ですよ。これはもう大変に良かったです。「学徒出陣」に関わったというか送られる側であった当時の学生さん、彼らが復員し、その後の人生。老齢となり振り返る肉声。あるいは戦死した方たちの残した言葉などを聞きました。番組の中で保阪正康さんがおっしゃっていたことですが、「彼らいずれも大正デモクラシーを経験していた人たちである」と。そうした人たちが戦禍に巻き込まれ翻弄されたということなのだそうです。このへんのことをわかっていなかったので衝撃を受けました。中村克郎さんという方が残したという言葉「転落する石だ。もう遅い。なぜあの時もっと反対していなかったのか」という言葉は大切だと思いました。

 まそんなこんなでして、「大正時代ってすごく色々と詰まっている」というのはつい最近に聞いた「クラシックの迷宮」における大正の歌の数々。あるいは「ニッポン時空旅」で聞いてきてきたことなんかが自分の中でまとまり始めたという感じです。

 最後に「現代の音楽」における白石さんのお話で知った大田黒元雄さんに戻し、あんまり関係無いところに着地して終わろうと思います。

 大田黒元雄さんは裕福な家庭に育ち、その当時としてはおそらく最先端の情報や音楽に触れて今にも通じるような考え方をものにされたっていうことらしいのですけど、お父さんは重五郎さんっていって水力発電で今でいう東芝の経営を立て直したという方であるようです。

 私にとっての「昔の産業界における水力発電」っていうと野口遵(したがう)さんであるわけなんですが、調べてみると生年としては大田黒重五郎さんの方が七年ほど年上であるようです。誕生日は同じ、没年も同じっていうのがビックリしたんですが。しかしネットで手軽に調べるだけにおいては別に両者における関わりは無いみたいです。

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 野口遵といえば「水俣病」なんですけど、以前の当ブログにおいてご紹介しました。仏教的な視点から水俣病を見るみたいな中島岳志さんのお話が再放送でNHKの聞き逃し配信で聞けますので気になっていた方はどうぞご参照ください。人々の無意識な欲望に支えられて大きな公害問題であるとかが起こってしまうのだみたいな構造が語られていると思います。このあたりは別に信仰心の無い私のような方達でもわかると思いますのでぜひどうぞ。

私の小学生時代〔12〕

 しめっぽい話が続くんですけど、小学校の時の同級生の思い出です。

 だいたい同じ内容を以前の当ブログにてチョロっと書いたんですけど、そんなに継続して読んでくださっている方もいないと思いますのでかんたんに再録しましょう。

 彼は大人になった後にヤクザ組織に加わったとかで親子の縁を切られてしまい、最終的には東名高速道路の盛り土の草むらだったかの中に紛れて白骨遺体になって発見されたのでした。

 全く詳細は知りません。私は。

 彼の実家はわりと東名高速に近い場所だったので、やっぱり帰りたかったんじゃないかと想像します。

 親子の縁を切られたので、お墓にも入れないってことだったのですけど、幼い頃から一緒だった友人たちがお父さんに何度も掛け合って、お墓に入れてもらったのだとか。ご両親にしてもそれくらい周囲から言われないと入れにくいっていうのもあったかなって私は思うんですけど想像です。

 ここだけ知ると「友達っていいな」って思います。

 しかしヤクザの活動に加わったということですので、勘当されるくらいですから、いけないこともしたんじゃないかと思われて、大それたことをしていなければ良いなと思います。

 迫力のある顔をしていたわけでもないのでヤクザでも苦労したんじゃないでしょうか。実績を積むに焦って貧乏くじを引かされたとかじゃなければ良いのですが。ヤクザだってあれ結局は利潤を追求する組織ですから何かロマンがあるとかそんなんじゃないですよね。

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 彼がひとり孤独に死んでいったことを思うと、子どもの頃は足が早くて楽しい子だったのに「なぜ?」って思います。

 いかにも小学生の男の子が言いそうなことですが「お父さんのおチンチンを見たら、すごく大きくてヘビのコブラみたいだった!」とかですね。それ以来しばらく「コブラ!」って言うのが小さかった私たちにおけるキラーフレーズになりました。

 しかし故人を偲ぶ場合に一番に思い出されるのが「おチンチンがコブラ」っていうのは泣いていいのか笑っていいのか迷います。

 今日のお写真はあてずっぽうですけど近くの高速道路の盛り土を撮影してきたものです。

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 以上で「私の小学生時代のお話」はおしまいです。

 私が地区のお仕事を継続している理由なんかも合わせて述べてまいりました。

 私自身は決してお手本になれるような人間ではないんですが、「ちょっとは正しいことをしなければいけないのかな」と思っています。

 ジャーナリストの津田大介さんがネット上で運営している動画に編集者の野間易通(のま・やすみち)さんを招いて対談しているのを見ました。

 野間さんは私と同い年で、一族のルーツが鹿児島という点も一緒です。私の親戚の中にも野間さんライクな顔をしたオジさんはいたと思いますけど、みんな昼間っからいつ飲み始めるか。それしか頭にない人ばかりですので野間さんがお酒を飲まないというのはご自分を欺いていると思います。野間さんのおっしゃることで私が「違う」と思うことは非常にわずかでしかありませんが、ことお酒の面に関してだけはご自分の血脈に素直になった方が良いと思います。

 野間さんは私と音楽の趣味などは合うんだなとネットで見ていると思うんですが、なんの交流もありません。しかし西新宿5丁目とそれほど遠くない場所にお住まいだということですので、私が東京にいた際にすれ違ったりしたことくらいはあったのかもしれません。気になっているのは私がごく短期間所属していたバンドのキーボードの人が神戸の人でした。音楽の趣味的にも世代的にも神戸はそんなに広い地域ではないと思うので、もしも知り合いだったらどうしようっていうのはあります。その人とはバンドは比較的すぐに終わったんですが、バイト先が一緒で付き合いは長かったのです。

 津田さんと野間さんの動画に戻します。

 その中で語られていたことは多岐にわたりますが、1点、世の中が悪くなってくるとパンクな実践ってむしろ良いことをしていくことじゃないか。みたいなことが言われていました。全くその通りだと思います。しかしパンクスがあえて正しいことをしなきゃいけないってのも末期的だなと感じます。

 別に誰かから「パンクっすね」とか言われたくてやっていることではありませんがムカつくほど正しいことをしていけば良いのかと思います。

 そうした活動はしかし、死後の世界でもしもジョー・ストラマーに出会ってしまった時に「俺も生きてる間はちょっとは良く生きてたよ。」みたいなことが言えるかどうかにおいても重要でしょう。

 こういうことを書くとあたかも私が大変なクラッシュファンであるとか、ジョー・ストラマー信奉者。そんな感じになってくるんですけど、正直なところ私にとってのクラッシュはファースト・アルバム。あとはもう3rdの「ロンドン・コーリング」くらいですので長く死後のストラマーさんとしゃべったりするとその辺が露見しましてつかみ合いのケンカになりかねません。口汚く罵り合うとかの結末すらチラついてまいります。死んでからも油断はできない。

 前にも書きましたけど私にとってのパンクロックはロッケンロールの復権みたいな面が大きすぎるのです。

 クラッシュの音楽性の広さが許せないんですよね。

 ダムドにもそういう部分ありますけどね。

 しかし長くなりますのでこの辺で。

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 以下は日記的な記述です。

 朝から小学校に行って奉仕活動のお手伝いをしてきました。

 回覧板を見ていたら「草刈りを手伝ってください。地域の人でも参加可能」みたいなことが書かれていたので小学校に電話して加わりました。

 作業は1時間半で終わりました。

 好天に恵まれ気持ちが良かったです。

 私が配属された受け持ち区域は私が1年6組だった時の教室のすぐそばでした。きっかり50年ぶりです。さきのエントリで書きました、早くに亡くなってしまったおともだちも一緒だったクラスです。

 きれいにしてきました。

 ちょっとお写真も撮影してきました。

 集合場所の床のセメントの表面にデコボコがけっこうあるなと気づきました。「これが50年の歳月を経たその様相なんであろうか」とか思ったんですけど、よく見ますと表層が欠けて、地の層が見えているだけにも思えます。補修すればまだ大丈夫なのかなと素人考えですけど思いました。

 本日の富士山のお写真です。

 男の子がそれはもううれしそうにしてタコあげをしていました。

 逆光でしたので確信を持てずにシャッターを押したんですけど、無事におさまっていたようです。近くにお父さんらしき方もいらしたのですけど、惜しくもフレームアウトといった具合です。

 今日は風があったのでタコあげには絶好の日和でした。

私の小学生時代〔11〕

 私が中学生だった時の先輩のお話です。

 イラストはその人です。

 私は小学生から高校生までずっと「美術部」あるいは「お絵描きクラブ」所属だったんですけど、先輩は中学の美術部の部長さんでした。

 社会人になってからは本屋さんの雇われ店長をしていました。適職だったと思います。

 本屋さんは小学校からすぐの場所にありました。

 今は予備校になっています。

 その前は「テンジンヤ」っていう、おにぎりなどの食べ物を扱うお店でした。これは静岡県内ですと有名なお店チェーンなんですけどね。

 本屋さんだった時期はもうかなり昔のことです。

 いなかの本屋さんにはありがちなのかもしれませんが、卵の自動販売機がおいてあったり、小さなゲームコーナーを店の表に設置したりと、実態がよくわからない感じになっていました。

 帰省するたびにお店によって話をしたりしていました。

 「オイ! ヒジクロッ!」っていうカン高い声が今でも聞こえてくるようです。

 美術部にありがちなんですけど、この人はいわゆる「オタク」の人でした。世代的に言ってもうかなり古いタイプの人でありまして、たとえば友人を見かけた際に「前方にダレソレ軍曹を発見! ダレソレ軍曹にィ~ィ敬礼!」みたいな一連の所作がテレもなくできるという選ばれた感性の持ち主でした。

 私自身はそういうタイプにはならなかったんですけど、美術部界隈の雰囲気にはもう完全に慣れているんで「あいかわらずだな」くらいのもので疑問にも思わない。そんな距離感でした。

 東京での生活を終えて富士市に戻ってきてから「先輩にそろそろ会いに行かなきゃ」って思っていた矢先に友人から「先輩は自殺した」と聞かされたのです。

 何も残さずに死んでいったようで、周囲の人も原因がわからず当惑しているということでした。口々に「自殺するような人じゃなかったのに」ということでした。

 もちろん私にしても何もわかりません。

 ただお店の経営において万引きの被害が多くて悩んでいる様子はありました。お店の前にゲームコーナーを開設したのがいけなかったんじゃないかと思います。想像ですけどね。

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 上の画像はその本屋さんで買ったものです。

 ニューエスト・モデルというバンドの「クロスブリード・パーク」というアルバムです。

 ほんの一時期、レンタルCDの営業もしていたらしいのです。色々と手を出しすぎじゃないかって思うんですけど。

 レンタル事業から撤退した、そのあとにお店に行ったのだと思います。

 不用品としてすごく安く売られていたので私のお財布事情からもお金を出すことができました。

 これが先輩の遺品がわりということになってしまったなと思います。

 良い作品ですのでこの先もずっと持っていられるでしょう。

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 最後に冒頭のブログ用イラストについて説明を加えておきましょう。

 中学生の頃の先輩の姿を描いたというのは説明した通りです。

 風紀委員をやっていたんですよね。曲がったことが許せない人でした。

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 生きていてくれたら私が運営に加わっている地区のお祭りだとかに「来てよ」であるとか言えたのになって思います。

 「ヒジクロが本を出したらサイン会を開いてやる」なんてことも言ってくれていたんですけど、残念ながら本なんて出せていない私です。

 私が死んだ後に先輩と死後の世界で会うことがあったら「死んでんじゃねーよバカ」とネチネチ言ってやろうと思っています。

 カン高い声で抗議してくるでしょうけど、その時にはもう私の方が断然年上ですからひたすら上から言葉でなじってやろうと思います。

 望むところなんですよ。