「宇宙人」タグアーカイブ

宇宙人の帝国〔13〕

 いつの間にかメルセ星人ちゃんが運転手S氏の腕の中に潜り込んで抱っこしてもらっているところです。

 このあたりは大変にネコっぽいですね。

 もちろん実在のS氏が50年前くらいに語ったエピソードの中にはこんな場面はないです。

 私が勝手に作りました。

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 今日もスポーツ・フェスティバルの準備作業をしました。

 小学校の皆さんに見てもらうために、チラシの改良版をつくりました。データ入稿を済ませました。印刷してもらいます。

 救護テントを設置して不測の事態に備える必要があるのですが、応急救急用品のチェックをきのうやりまして。一覧表にする作業を終えました。

 やはり表にすると一目瞭然です。

 補充する必要がある品物が判明しました。

 それと賞品にするボールの値段の調査もしました。

 これから部署ごとに必要な軽食の数、飲み物の数、駐車券の数をまとめようかと思います。

 あさってに全体会議があるのでそこで使う資料の作成もします。

 この辺は今夜から仕上げていって最終的には明日のお昼過ぎの完成を目指します。いそがしいですね。

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 ラジオ日記です。美空ひばりさんの歌声を聞きました。

 NHKラジオ第1「ふんわり」より。

 それと一風堂「すみれセプテンバー・ラブ」を聞きました。

 昭和の9月はこんなに暑くなかったなという感想もあります。

宇宙人の帝国〔12〕

 「メルセ星人が差し出した飲み物とは?!」というイラストです。

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 今日も「スポーツ・フェスティバル」の準備作業をしました。午前中は書類関係。主に名簿の整備。と、本日行われたはずの三役会用の資料作り。

 午後は昼寝の後、スポーツ用品店に行って、運動場のライン引きに使う石灰を購入。20キロ。ちょっと重かったです。

 ついでに賞品として提供する予定の野球のボールの値段などを調査しました。

 石灰を倉庫にしまった後、救護で使う医薬品って書いて良いのか、いろんな品物を調査しました。

 使用期限が切れているものが多いです! というクレームが付いているんですね。現場をとりしきる人から。

 で、調べてみたんですけど、確かに古いものが多い。捨ててしまえば良いんですけど、残してあるものですから似たようなものが重複している状態です。わかりにくい。

 これはクレームが付いても仕方ないなと納得しました。

 そうこうしているうちに夜。

 いつも行く公民館的な施設で、打ち合わせをしました。

 100円ショップで、首から下げる名札を購入しました。50枚。安いのがあったので、それにしました。

 そんなこんなで1日が終わろうとしています。

 救護関係の品物を一覧にしないとわかりにくい。と判明しましたので、表にしようと思います。それと古いものは捨てないといけません。

宇宙人の帝国〔11〕

 イラストの説明なんですけど、「車を降りると富士市の海岸線に近い防風林のあるあたりでした。そこにメルセ星人が待ち構えているではないですか!」という場面のイラストです。

 左下にスズキ・フロンテのお尻のあたりが描いてあります。この排熱用のスリットがドワ~って並んでいる感じね。なんともいえません。空気の取り入れ口も別に存在してまして、これがまた垢抜けないデザインで良い味出してました。

 富士駅の南側から海岸線のあたりまでをざっくりいって「富士南地区」なんていいます。度々触れておりますが富士市をお捨てになったギタリスト土屋昌巳さんなんかの出身地ですね。

 だいたい見事なまでの平坦な土地なんですけど戦時中は軍用の飛行場があったりしました。元々そこに住んでいた人は追い払われたということであって、建設には外国から連れてこられた人たちなんかが働かされて、食べるものもないのでフラフラしながら労働していたという。それを不憫に思った土地の人がおにぎりを差し入れたなんていう話も伝わっているわけです。

 戦後その地は戻されたわけなんですけど、農地に戻すまでにはまた大変な苦労があって、排水路の整備であったり、農業用水路の拡幅なんかが伝わっているようです。

 交差点の名前として「靖国」なんていう表記が残っておりまして、なんとも言えない気持ちになります。国家宗教的なシステムの片鱗を見る思い。毎年7月には「中国人殉難者慰霊祭」が行われています。

 上の写真はもっと後の時代になりますが、刻まれている文字によりますと昭和30年。おそらく富士南地区の中でもより海岸に近い地区のことなんだと思いますけど、そこに上水道が通ったことを記念する石碑ですね。

 写真が古くてすみません。10年前に撮影したものです。その時の記憶によりますと当時の皇太子が来てくださったとか。アヤフヤですけどね。

 上水道が通るということがけっこうな一大事だったことが伝わると思います。

 上の画像はまたちょっと時代が近くなりまして、私が生まれた昭和41年。この年に富士市は合併を遂げまして、いわゆる「新富士市」ってことなんですけど、「上水道が通ったよ!」「富士市の全地区が水道の蛇口をひねれば、お水が出るようになったよ!」っていう市の広報誌の画像ですね。「百年来の念願」って書いてありますね。書いた人が文学的な人だったんでしょうか。

 写真に写っているのはこれは懐かしい。市長の斉藤滋与史(しげよし)さんですよ。オールド富士市民にはたまらない。私の記憶にある氏のイメージより何倍も若いです。

 「出たー!」って感じの感動を捉えたお写真。素朴な感動を今に伝える。良いですね。

 マ、こんな感じで富士市の海岸線に近い方のイメージっていうのは伝わりましたでしょうか。

 個人的にはこの石碑からもそんなに遠くないバイク屋さんで生まれて初めての自転車を買ってもらったのが一大イベントなんですけど、そっちは関係ないです。鮫島(さめじま)とか五貫島(ごかんじま)、あるいは柳島(やまぎしま)っていう地区なんですけどね。

 自転車に乗ってご満悦な私と1歳違いの妹の画像です。

 私が着ているのは母親手作りの革のチョッキ。私の革ジャン革パンロックンロール好きはこの頃からだとわかる一枚です。

 こちらのお写真を見ますと、チョッキと半ズボンで揃いのツーピースだったらしいってことがわかります。しかし革の半ズボンは全く覚えていません。チョッキの方は大好きで大のお気に入りでした。

 お写真の説明をしますと、動物園に行って写真を撮ることになったんですが、後ろのラクダさんに噛まれるんじゃないかと心配で表情のすぐれない幼児の時の私の表情です。

 子供はこういうことを心配するんですね。オリがあるから噛まれるわけはないんですけどラクダさんの存在感の大きさに気が気で仕方ないのです。

 来ているセーターは電車が並んでいるなかなか優れたデザインの一着でありまして、一つの列車がポケットになっていたと思います。グッド・デザイン。

 行きがかり上こちらもご紹介しておきましょう。幼児向けテレビ番組におけるお絵描きコーナーを見ながら私が描いた絵(たぶん書かれている通り「ししまい」)です。

 私にとってはごく簡単な行為だったんですけど、母親がえらく喜びまして。写真を撮ろうって表に連れて来てくれました。画像では肝心の描写が判然としませんけど。

 「上手に絵を描くとお母さんが喜んでくれる」。これが私の長く続くことになるお絵描きの原点ですね。でもおそらく絵を描き続ける多くの人にとってもそうじゃないかと思います。はじめはそんなもんですよね。

 私の母親は上述しました通り、子供用のお洋服なんかはチャッチャと作っちゃう割と器用な人だったんですけど、絵はそんなに得意じゃなかったんですよね。

 写真に添えられおります文章なんかも書くのが好きな人でありまして。ここはモロに私が受け継いだ部分です。思い出しましたけど新聞に投書した短歌だか俳句が掲載されたってことが自慢でした。ここは私は受け継いでないですね。

 私は耳で聞く文章を即座に画像化して脳に納めるクセがあるので短歌、俳句などにおける「定型」っていうものが身につかないんですよね。絵にしたほうが早いじゃんってことでもあります。別の人が作った俳句や短歌を聞くのは好きなんですけど、それも全部画像化しちゃうんで元の文章は残らないです。

宇宙人の帝国〔10〕

 トラック運転手のS氏が自分の意思とは関係なく誰かに誘導されるかのように車を走らせている。という場面のイラストです。

 この晩、S氏は富士駅(当時は国鉄)の裏にあるという例の友人宅から帰宅しようとしていたところ、なぜか港の方向へ向かってしまったんだとか。

 S氏の自宅は北へ数キロ。港は港へ数キロという位置関係ですので真逆ですね。

 富士駅から海の方に向かう場合、西側の岸の方が近いなと思い、こういうイラストにしてみました。ちょびっと田子の浦港(たごのうらこう)に係留されている漁船も見えています。

 映画「ゴジラ対へドラ」でチラッと写っているコンクリートの何ていうんでしょうか。船をつなぎとめておいて乗り込んだりするところ。そうしたあたりです。

 車の後ろに見える食堂っぽいお店は1970年代によくあった「ドライブイン」を模して描きましたが、当時こんなちゃんとしたお店は田子の浦港に接した場所にはなかったです。もちろん「へドラ」に出てくるゴーゴー喫茶もありませんでした。あのお店は不思議なんですよね。ギタリストの土屋昌巳さんがまだ富士市を捨てる前の高校生の時にキャバレーでバンド活動をされていたということなんですが、要するにキャバレーがせいぜいという土地柄です。それも駅近くですよ。昔は富士と吉原に。まぁいいですかねこんなお話。

 港の周辺は荒涼とした感じで、いまだとかろうじてリバプール・ジョンっていう誰のファンなのか聞かずともわかる店名のお店がありますけど、絵に描いたような盛り場みたいな若者が集まるっていうねぇ。ないですしなかったです。

 私が子供の頃、吉原にあったキャバレーの向かいの川岸に朽ち果てたマツダ・キャロルが置いてあったことが妙に記憶に残っています。

 それとは関係ないんですが、S氏の愛車はスズキ・フロンテということにしました。デザインに思想がないというかあっちもこっちもって感じにまとめた非常に当時くらいまでの日本車らしい車なんですけど私は非常に好きです。どちらかというとお尻あたりの「これってどうなんだ?!」っていうデザインが好きですね。けっこう良く見かけました。

 排ガス規制の前に作られた車ですので排ガスがモクモク出ている。みたいな細かい描写もしてみました。

 あとは余談になりますけど土屋さんが高校の頃に使っていたという元は英会話教育用だというテープレコーダーの詳細が気になっています。それをプリアンプ代わりに使っていたそうなんですよね。ブライアン・メイ氏におけるエコープレックスみたいなね。