今日のイラストも吠えているプレーリードッグさんのイラストです。
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きのうの続きです。
献血とボランティア保険加入を済ませまして、せっかく外出したので市内を見て回りました。
まずはこちら。石碑です。
これはザックリいって「農地回復の石碑」って感じですかね。
石碑に刻まれた大量の文字を気温34度の中で読むのは大変です。
しかし良い掲示物がありました。
以上のような感じであります。なるほどね。
富士市の場合、公民館のことを「まちづくりセンター」って言うんですが、「富士南まちづくりセンター」の駐車場の隅に石碑がたっています。
このあたりに旧日本陸軍の飛行場があったということなんです。
「富士飛行場」と言ったそうです。
規模としては東西に1キロほど。南北に2キロほどだったそうです。
位置としてはザックリ申しますと、富士川に接する感じの富士市西側の土地。新幹線の線路の南側から海のそばまでってことになります。今の市民感覚ですと「富士の南中、南小、1号線はさんで工場いっぱい建ってるとこいらへんダラ」って感じですかね。
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元は人が住んでいて農業をしていたんですけど、短期間のうちに「田畑売り渡しの上退去せよ」っていうことになったみたいで。
「富士市史・下巻」の720ページあたりからの記述を参考にしますと昭和19年の2月に軍の人が来てみんなを集めて言ったそうなんですね。富士見高校の講堂だったそうです。古い歴史を見ていくとけっこう富士見高校というか当時は富士見高等女子学校といったそうですけどよく出てきますね。それで当然ながら土地の人たちは苦悩したんですけど5月いっぱいで移転するムネ承諾したという。
この移転作業についても例えばお父さんが戦争に行っている家庭なんかは困ったっていう何かの記事で読んだことがあります。そりゃそうだ。踏んだり蹴ったりですよね。
建設資材の提供も別段なかったってことなんですけど、土地の人たちが協力してなんとかなったという騒動。かなり乱暴な話だなっていう感想を持ちました。
6月から造成作業が始まって12月に完成。その翌年が敗戦ですから、8ヶ月ほどの運用ということになります。
造成作業については、近くの岩本山(いわもとやま)の石まじりの土砂を運んできて埋め立てたということです。当然ながら農地としては死んだわけですね。
上のお写真にあった通り、戦後10年ほどの時間をかけて元の美田を取り戻した。
ぶっ壊すのは一瞬。元に戻すのに10年ということですね。
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つづきまして「農地としての土地改良」に関連する物件について見ていきましょう。
入道樋門(にゅうどうひもん)です。水門ですね。
おだやかに水を保持しているようすです。
向かいに見える工場は「ポリプラスチックス富士工場」です。
脇にこの水門の歴史を記した石碑がみっつも建っていました。
それによると昭和9年。昭和28年。平成16年という改良工事の歴史があるということでした。
すみません。またもや私自身が写り込んじゃってますけど。
水門周辺は公園になっておりまして「入道樋門公園」といいます。
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入道樋門から東に1キロくらいにある石碑も見てきました。
こちらは上で述べました富士飛行場を作るにあたり働かされた中国の人たち、そのなかでこの地で亡くなられた方たちの慰霊碑ということになります。
富士市においては毎年7月に慰霊の会みたいなことがされているんですけど、だいたい7月の上旬なので、もう行われたか、すぐにあるか、みたいな日程だと思います。
ちょっとデリケートな問題かもしれませんけど、日本人として日本の歴史に関わりこの地で心ならずも亡くなった人に対して哀悼の誠を捧げるに何の不都合があるのかというのが私の意見です。
ネットの地図とにらめっこで「たぶんここじゃないか」って感じで行ってきました。
そんなに広い場所じゃありませんでした。個々人が行って頭を下げてくるっていうのが良さそうです。
一応、ビールをそなえてきました(写真の左隅)。自転車ですのでノンアルコールです。
たぶん昭和の労働者にはビールじゃないかってことで行く途中で買ってきたんですけど、お店の保冷棚が故障中で冷えておりませんで。失敗だったかなと思います。
それと、おそなえしたあとで自分で飲んだんですが、この私がビールが苦手だという。意外にマズくはないんですが、苦くてね。大変でした。今度またいつか来る際にはもうカッコつけないで自分が好きなやつでノンアルコールにしようと思います。
話がそれましたけど、「あんたらも気の毒だったね」と心の中で呼びかけておじぎをして帰ってきました。
それ以上かける言葉もないですよね。つらかっただろうと思います。若い頃に肉体労働をしていた時のことを思い出します。当時でも別業種でしたが東南アジア系の人っていましたけどね。しかしそれは工務店のボスと思われる人がその人たちの国の言葉をしゃべれる人であってワイワイやってる感じでしたけど。あとはトヨタの車を組み立てる仕事をしていた際にも外国の人はたくさんいましたね。まぁそんな私の昔話は良いんですけど。
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当時の飛行場建設についてちょっとだけ詳しくいっておきましょうか。
これも「富士市史・下巻」からでございまして、720ページあたりからの記述です。
上の慰霊碑のくだりで中国からの人が500人ほど、そのうち50人ほどが亡くなられたということを知ったわけですけど、それ以外にも多くの人たちが関わっています。朝鮮人労働者もいたということなんですが、もちろんこの富士地区の人たちも多く作業したと。つまりビックリするんですけど今の富士宮の人たちも動員されているんですよね。
富士地区っていうか当時の言い方でいう「富士郡」全体として昭和19年の7月20日より2,100人という規模の求めがあったということです。
ヨソの人がこのブログを見にきてくださっている場合、土地のスケール感がわからないと思いますけど、遠くは白糸、上野、柚野(ゆの)、芝富、これは旧芝川町のことですね。かなり遠いですけど身延線に乗ればまぁ行けるのか。上井出とか白糸からの人も大変だったでしょうね。泣けてきますよ。
つまり今の富士宮市全部。当然ながら今の富士市の全村にも割り当てが来たということです。これはすごいね。国家総動員法の現実を見る思いです。
割り当ては人口に応じて何割みたいな計算だったのかもしれません。吉原町に来たのが一番多くて300人超ということだったみたいです。当時から人がたくさんいたんでしょうね。
あとは報酬。年齢とか性別に応じて日当がだいたい1円から2円。
以上のような感じでありまして全て「富士市史・下巻」よりの引用です。本日は以上です。
いやー。大変な話だなっていうのが私の感想です。みなさんにおかれましてはいかがでしょう。
明日はまったく別の話題になりますが続きます。