「イラスト」カテゴリーアーカイブ

私の小学生時代〔11〕

 私が中学生だった時の先輩のお話です。

 イラストはその人です。

 私は小学生から高校生までずっと「美術部」あるいは「お絵描きクラブ」所属だったんですけど、先輩は中学の美術部の部長さんでした。

 社会人になってからは本屋さんの雇われ店長をしていました。適職だったと思います。

 本屋さんは小学校からすぐの場所にありました。

 今は予備校になっています。

 その前は「テンジンヤ」っていう、おにぎりなどの食べ物を扱うお店でした。これは静岡県内ですと有名なお店チェーンなんですけどね。

 本屋さんだった時期はもうかなり昔のことです。

 いなかの本屋さんにはありがちなのかもしれませんが、卵の自動販売機がおいてあったり、小さなゲームコーナーを店の表に設置したりと、実態がよくわからない感じになっていました。

 帰省するたびにお店によって話をしたりしていました。

 「オイ! ヒジクロッ!」っていうカン高い声が今でも聞こえてくるようです。

 美術部にありがちなんですけど、この人はいわゆる「オタク」の人でした。世代的に言ってもうかなり古いタイプの人でありまして、たとえば友人を見かけた際に「前方にダレソレ軍曹を発見! ダレソレ軍曹にィ~ィ敬礼!」みたいな一連の所作がテレもなくできるという選ばれた感性の持ち主でした。

 私自身はそういうタイプにはならなかったんですけど、美術部界隈の雰囲気にはもう完全に慣れているんで「あいかわらずだな」くらいのもので疑問にも思わない。そんな距離感でした。

 東京での生活を終えて富士市に戻ってきてから「先輩にそろそろ会いに行かなきゃ」って思っていた矢先に友人から「先輩は自殺した」と聞かされたのです。

 何も残さずに死んでいったようで、周囲の人も原因がわからず当惑しているということでした。口々に「自殺するような人じゃなかったのに」ということでした。

 もちろん私にしても何もわかりません。

 ただお店の経営において万引きの被害が多くて悩んでいる様子はありました。お店の前にゲームコーナーを開設したのがいけなかったんじゃないかと思います。想像ですけどね。

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 上の画像はその本屋さんで買ったものです。

 ニューエスト・モデルというバンドの「クロスブリード・パーク」というアルバムです。

 ほんの一時期、レンタルCDの営業もしていたらしいのです。色々と手を出しすぎじゃないかって思うんですけど。

 レンタル事業から撤退した、そのあとにお店に行ったのだと思います。

 不用品としてすごく安く売られていたので私のお財布事情からもお金を出すことができました。

 これが先輩の遺品がわりということになってしまったなと思います。

 良い作品ですのでこの先もずっと持っていられるでしょう。

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 最後に冒頭のブログ用イラストについて説明を加えておきましょう。

 中学生の頃の先輩の姿を描いたというのは説明した通りです。

 風紀委員をやっていたんですよね。曲がったことが許せない人でした。

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 生きていてくれたら私が運営に加わっている地区のお祭りだとかに「来てよ」であるとか言えたのになって思います。

 「ヒジクロが本を出したらサイン会を開いてやる」なんてことも言ってくれていたんですけど、残念ながら本なんて出せていない私です。

 私が死んだ後に先輩と死後の世界で会うことがあったら「死んでんじゃねーよバカ」とネチネチ言ってやろうと思っています。

 カン高い声で抗議してくるでしょうけど、その時にはもう私の方が断然年上ですからひたすら上から言葉でなじってやろうと思います。

 望むところなんですよ。

私の小学生時代〔10〕

 私が通っていた小学校に関する話題に戻します。

 イラストはもう中年になった頃の私の体験から図化いたしました。10年くらい前のことだと思います。

 私は地区の仕事で福祉推進委員をしていました。

 小学校の運動場において「目の見えない人の体験をしてみよう」という試みです。

 小学生の子などに目隠ししてもらって、「前に進みますよ」「左に曲がりますよ」とかを手をそえて歩いてもらうというものでした。

 地域の活動でよくあることですが、「参加した人には飲み物をプレゼント」という段取りになっていました。

 飲み物は好みに合わせて選べるんですけど、ある女の子がその時に「私は外人だからお茶じゃなくてジュースで」みたいなことを言ったんですね。

 虚をつかれた私は何も言えませんでした。

 顔立ちを見るに混じっている感じはある子だったと思います。

 「このへんで暮らしている子は、みんな富士の子だよ」と言ってあげられればよかったのですが、そんなイイ言葉はとっさには出てきませんね。

 女の子にしてみれば何気ない他意のない言葉だったのかもしれませんけど、子どもは子どもで大人が言うことをリサーチしてますからね。

 安心して成長していって良いのだっていうメッセージは必要に応じて言ってあげるべきではないかって思います。あんたら全肯定される存在だっていうことですね。ちょっとだけね。

 知らないオジさんが熱弁すると不気味ですからね。

 当地区においても海外由来の人たちが増えてきていますが、なるべく融和していきたい。そういう気持ちです。

 この先さらに日本国内が食い詰めていきますと何が起こるかしれません。取り越し苦労だと良いのですけど、この先なにかあった場合ですね。非常に気の長い話ですけど地域の中での発言力みたいなものって長くその地区の活動を支えてきた人に、まずはあるっていうのが実態でしょう。私がそうした存在になれるかどうかわかりませんけど、起こるかもしれない事態についてトシをとったその時の私が役割を果たせれば良いなと思います。

 私に守れるものがあるとしたらこの小さな地区なんだと思います。

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 明日からの数回は、なぜ私が疲れるばかりで一文の得にもならない活動に加わってきたか、その動機について語ることになります。

 先のエントリで書きました「早くに亡くなってしまったおともだち」なんかもそうですし、もっと以前に書きました「こんなモロに人工的に作られた地区でも今の子たちにとってはそれなりに歴史のある土地なんだ。と気づいた」ことなんかもそうです。(つづく)

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 日記的な記述です。

 「富士市史」という本を見てきました。市の施設に置いてあるものです。

 気になっていたことが分かりました。

 「富士市南部の平野にかつて存在した軍用飛行場の“その後”」についてです。

 建設中の中国人労役であるとか、運用中にその地から飛び立ち沖縄で戦死していった人たちのことなどはメディアで取り上げられることもあるんですが、民間に返還された後に「農地に戻すまでの苦労」ですね。ここが知りたかったのです。

 元々農地であったのですけど、いったん飛行場にしてしまっては再度農地に戻すまでの苦労というのは大変だったのでは。

 大げさかもしれませんけど「失地回復」のおもむきを感じます。スペイン語でいう「レコンキスタ」ですか。「国土回復運動」の方が正確なのか。別に農地を国土と表現しても間違ってない気もします。一水会という新右翼の団体が発行する機関紙の名前でもありますね。鈴木邦男さんも亡くなっちゃってね。木村三浩さんが「リベラル右翼」というようなことをおっしゃっていると思うんですが私は一つの落とし所かもと感じています。

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 今日は他に講習会を受けてきました。県の総合庁舎の会議室にて。昔の中央病院が建っていたところですね。そんなことを覚えている人も少なくなってきたと思いますけど。

 講習会の中身は消費税の取り扱いが変わるというその説明でした。

 難しかったですけど、ごくシンプルに教えてもらってきました。

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 その後、重い荷物を運搬する作業をしました。

 なんでも明日の朝はすごい雨が降るそうです。晴れているうちに作業を済ませておきました。

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 ラジオ日記です。NHKラジオ第1「ふんわり」木曜日の担当はアナウンサーの澤田彩香さんと俳優で産業ロックの回し者である六角精児さん。

 番組中にTOTOというバンドの楽曲「ロザーナ」が流れました。スティーヴ・ルカサーさんは私が最も嫌いなギタリストのうちのお一人です。もちろん曲が流れている間はラジオの音声を切りました。

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 今日の特集コーナーは「名前ソング」でした。女性が歌う「男性名」。男性が歌う「女性名」という切り口。楽しかったです。

 ディック・ミネさんの「ダイナ」。非常によろしいギター演奏と歌唱。

 それと長見順(ながみ・じゅん)さんの「ジョンソン」を聞きました。初めて聞きました。

 六角さんによる長見さんの使用ギターへの言及あり。ギルドのフルアコ。フロント・ピックアップ1発のよく弾いてらっしゃるやつ。似合ってますよね。Mary Halvorsonさんがもうちょっとジャズ寄りのやっぱりピックアップ1発のフルアコを愛機にしています。こちらは見栄えがするギターです。インペリアルペグがついてるやつですね。

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 せっかくですので、私が思う「お名前ソング」も言っておきましょう。

 これはカッコいい。The Advertsというイギリスのバンドの「Gary Gilmore’s Eyes」。パンクロックです。自ら死刑にして欲しいと望んだ男についての歌です。

 実はこの歌についてのオマージュみたいな楽曲もございますので、そちらもご紹介しておきましょう。The Briefsというこちらはアメリカのシアトルでしたっけ、そんな感じのバンドの楽曲「Looking Trough Gary Glitters Eyes」。こちらも犯罪がらみでありまして、もとは国民的なロックシンガーであったのだが非常に重い犯罪を犯してしまった人物についての歌です。存命中ですが次に彼の名前を聞く時は訃報でしかないだろうなって思います。曲調としては元気いっぱいのパンクロック・ソング。私はこのBriefsというバンドが大好きです。

 他に女性名を歌うthe Briefsの楽曲と申しますと非常に短い曲「Dolly Parton」。まぁまぁ短い曲「Benny’s Got a Cigarette」、「Sylvia」なんていうのもあります。ディス・イズ・ロッケンロールですね。

私の小学生時代〔09〕

 きのうの長い文章を書いた影響でもう体力がございませんので今日は短めで。

 「原田のあたりは水が豊富」みたいな記述をしましたが、そのおとなりの地区である「今泉(いまいずみ)」も水がキレイだっていうようなお話です。表記からして水に特色がありそうです。

 暑い時期に子供を大きなたらいに乗せて川下りをする。という行事があるみたいです。

 昭和の一時期を経て「自然をきれいにしよう」という活動が可能にした「川下り」なんだという紹介をネット上で見かけました。

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 下の画像は毎度おなじみ、我が富士市が発行する広報誌からのものですけど、若い方たちには想像もつかないかもしれません。かつては不要なゴミを川に投棄。わりと普通だったんですよね。そうした風潮がなくなってよかったと思います。

 描かれている主婦の目つきがあやしくてちょっと不安。

 昭和46年、1971年の3月5日号よりの引用でした。

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 本日のブログ用イラストの説明もしておきます。

 ネコちゃんの非現実的なポーズです。

 これはスケボーにおいては非常に基本的なワザのひとつでして「ハンド・プラント」とか呼ばれるものです。元はバーチカルとか水を抜いたプールのリップの部分で方向転換をする時に使用されたものだと思いますけど、ストリートスタイル(路上)でもやります。ストリートでやる分にはそんなに難しくないので私もやっていました。

 そうしたスケボーのワザを、たらいの川下りに当てはめてみたという無茶なイラストです。おそらく絶対に不可能だと思いますが、楽しいイラストになったかなという気がしています。

 下に続くお写真は「いかにこのあたりの川の水質が良いか」が伝わるようなものを集めてみました。参考にしてください。

 川底に水草が茂るようすです。

 こんな感じです。

 水面に浮かんで暮らすカモ諸氏。水がキレイだというのは素晴らしいですね。

私の小学生時代〔08〕

 きのうのエントリで「富士市の原田っていう場所はザ・ドリフターズの「いかりやさん」の地元だ」というご紹介をしました。

 ここ最近のテーマである「私の小学生時代」からちょっと脱線して「原田地区」について書こうかなと思います。たいして知ってるわけでもないのですが。

 水が湧き出しています。それも1ヶ所や2ヶ所ではありません。

 平野部に接する場所でもありまして住みやすいのですね。昔から人が住んでいた場所です。富士市においては。

 私が住んでいる地区とは好対照です。こちらは絵に描いたような新興住宅地ですから。

 上のお写真はいかりやさんが青年時代に働いていた工場。製紙工場です。

 春日製紙という会社です。湧き水が豊富であるため古くから製紙産業が盛んな地区です。

 いかりやさんはここ春日製紙に勤めながら会社の仲間とバンドを結成し、ダンスホール等で演奏活動もされていたということです。

 原田から吉原であるとかの繁華街は遠くありませんし、となりの沼津に行くにしても富士市の中では比較的に沼津にも近い位置にありますので有利だったのではないかと思います。ウッドベースを抱えての移動だったと想像するのですけど、鉄道網へのアクセスも容易な場所ですので好都合だったのでは。

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 原田は他にも色々とありましてですね。お寺も多いなっていう印象です。

 下のお写真は永明寺(ようめいじ)のお写真です。曹洞宗としては市内でも古いんだとか。

 戦時中に学童疎開の受け入れをしていたらしいのです。

 下のお写真は「史跡が語る静岡の十五年戦争」という書籍の巻末資料みたいな部分からの引用です。

 渋谷区の神宮前からの疎開を受け入れていたことがわかります。

 それらは後述するとして、いったん資料を見て参りましょうか。

 原田地区内ではちょっと離れた場所にある清岩寺でも受け入れていたことがわかります。

 下のお写真です。ちょうど入り口付近が工事中でしたので駐車場の方からお邪魔してお写真を撮らせていただきました。

 お寺と富士山。素晴らしいですね。

 それと資料をもう1枚。

 岩本の実相寺というお寺は多く学童を受け入れていますね。150名。大変なものです。このお寺は市内でも有名なお寺です。

 下の画像は富士市の広報誌がかつて特集した戦争関連の紙面ですが、良いお写真がありましたので引用させていただきましょう。「広報ふじ平成13年(2001年)8月5日号」より。

 実相寺における当時のようすだということです。

 子どもたちの表情。それと女性教師の方なんでしょうか。けっこうモダンなお洋服をお召しになってらして驚きます。

 疎開は当時の東京都、荏原(えばら)区よりと書いてありますね。

 今ですと品川区の荏原地区っていうところなんだとか。

 以前にチョロっと書きましたが、あんまり深くは書きたくないんですが、ということはあんまり良い別れ方をしなかったっていうことでもあるんですけど、私が若い頃にお付き合いしていた女性。エンソニック社のESQ-1っていうシンセを持っていた人ですね。その方の住所が「大崎」っていう場所だったんですけど荏原とは接しておりまして、ちょっとドキッとします。

 映画「私が棄てた女」っていう遠藤周作さん原作の映像作品があるんですが、深夜放送で若い頃に見まして、「いやオレの場合は捨てたとか捨てられたとかじゃないから」って思って見はじめたんですけど冒頭にも近いところで、五反田の駅の上から東急池上線が発車するのを橋の上から撮影しているみたいな場面がありましてギョッとしました。池上線が発車する直下に入ってるラーメン屋さんで食事したなぁ、とか、母の日が近かったんで花束を買ってあってカウンターの下に置いて食べたとか、花束はお母さんに好評だったであるとか、「モヤシが生だ」って言った彼女。しあわせだったオレ。とか思い出しましてドキドキしました。心臓に悪い映画です。禁止するべきだと思います。

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 原田地区の永明寺に戻したいんですよ。

 今回は書くには書きますけど都合の悪いことも書いちゃいましたので読む人がイヤになるほどの長文にしましょう。読まれたくない。特に上の段ですね。情の深い人だったんで映画に出てくる人に重なってきます。もう何十年も前のことですので大丈夫かと思いましたけどやっぱり恥ずかしいですね。遠藤周作さん入魂の聖女ですのでヤバいです。禁止するべきだと思います。 

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 永明寺は渋谷区は神宮前からの学童疎開を受け入れたというところまで記述しました。

 今だと区立神宮前小学校というのがありますので、そこからの学童諸氏であったんでしょうか。

 位置でいうとかつてビクター音産が入ってたビルの近くですね。

 私はデザイナーとしての末期に「メガゾーン23」というアニメーション作品のチラシデザインを手がけたことがありまして、カンプ(見本)か何かを持って行ったことがあります。会社の原付バイクで。

 「メガゾーン23」はOVAっていいましたか家庭向け映像ソフトとして作られた作品なんですけど、好評だっていうことで映画館で数日だけ上映したい、ついてはチラシが必要だとかそんな話でした。

 ディレクターの人は映像を取り扱う部署の人だったと思いますが、元々はサザンオールスターズのビデオを作りたいが入社動機だったと聞きましたけど、アニメばかりを手がけていたようです。その後どうされたのでしょう。お元気でいると良いのですが。

 東京に限らず都会の風景は絶えず更新され続けるものであって、変わってしまうと以前の姿を思い描くことが難しかったりします。かつてはここに「ビクターの犬像」があったんですよね。

 表参道を見下ろす喫茶店がビルの中に存在していて、私も打ち合わせで1回だけそのお店に入りました。当時のビクターに所属していた音楽家の人なんかはたぶんそのお店、ひんぱんに利用したと思います。私は1回だけですけど、ビクターの人とあのお店で打ち合わせというのは今となっては貴重な体験かもしれません。

 ビクターの道を挟んだ向かいあたりの位置にはストーミーっていうお店が入っているビルがあったと思います。私がスケボーに入れ込んでいるときによく通っていたお店です。

 マそんな地区からの疎開であったと。

 もちろん戦後より前のあり方って、今みたくにぎやかではなかったんだと思います。

 けっこう激動ですよね。当時は代々木の練兵場のすぐそば。今の代々木公園を中心とする広い区域。

 こうして知っていくと、「昔の軍用地」ってとにかく広かったんですね。

 226事件での首謀者であるとか北一輝さんらの銃殺。

 終戦時には大東塾の14名が割腹自殺。伝統右翼ですよね。このあたりはルポライターの安田浩一さんのご著書「右翼の戦後史」の内容が参考になります。

 戦後はワシントンハイツができて。そこで野球チームを率いていたジャニー喜多川だったという。

 NHKの局舎も建ちましたし。

 そうだ。この文を書いているのは11日の土曜日なんですけど、NHKのラジオ番組「文芸選評」のお題は「忘れえぬ人」というものでした。

 案外、深く交わった人の記憶であるよりもふとすれ違った、しかし印象に残る人についての短歌が多かったのでした。

 私もそういうのがございまして、この機会に書いておきましょう。

 冬の寒い時期の夜にNHKのそばを歩いて原宿の駅から電車に乗ろうとしていた私でしたが、あたりにはほとんど誰もいない状況。

 そのちょっと薄暗いあたりでベルボトムのズボンか何かを履いた3人くらいいたと思いますけど、非常に声がよく出ていてギターをジャンジャカ鳴らしていたんですけど、だれも聞いていない。そこに通りかかった私。ビンビンと響いてくる歌声。とても気まずかったです。

 その時に着ていたコートが下のお写真です。

 これは目立ちます。異様なんですよね。そりゃそうだ。

 日常的にスットンキョーな格好をしていてジロジロ見られる。あるいは無断で写真を撮られる。それが珍しくなかった私であるがゆえに断言できます。

 このコートの目立ち具合は数段ほど上。イヤってほど見られます。逆に変な革ジャン着てるくらいじゃたいして見られないのが東京のあたりなんだなっていうこともわかりました。都会の風景としてはアレで案外なじんでいたんだなってことですね。

 このフェイクファーのコートは当時のギャル文化の人なんかの注目もあって困りました。困ったんで今更渋谷の駅から電車には乗れない。もう人目に立ち向かっていく意気地がない。スクランブル交差点のあたりに行けるほど神経が太くないってことで人が割合に少ない原宿駅を目指したのでした。夜であれば昼よりもガッと人が少なくなるのが原宿駅です。カッコは派手だったかもしれませんけど中身は地味なんですよね。私は。ブーツィー・コリンズ氏もそんな人だって聞きますけど。案外そうした人が多いのかもしれません。

 そんなワケなんですけどシロクマみたいなコートを着ている人間が単独でこれまたちょっと風変わりな集団の歌を聴く。その場に加わるというのはできませんでした。興味はあったんですけど。

 あの人たちは何だったんだろう。そんな私の「忘れえぬ人(たち)」のお話でした。

 私のシロクマコートは自作でありまして手縫いなんですけど、その辺のお話はまたいつか。老眼になる前ですので作業は絶好調でバンバン進みました。懐かしいです。

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 以上、戦時下の子どもたちが東京も中心部から静岡の富士市であるとかの地方に移って住んでいた。というお話(と余談)だったんですけど、逆のお話もいたしましょう。

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 例の富士宮の少年戦車兵のことなんかを調べるうちに「人穴(ひとあな)小学校」のホームページにたどり着きました。特に関係はなかったのですけど。しかし私にとりましては自転車で通りかかることもあって見慣れた小学校です。

 位置的には山梨県との県境に一番近い富士宮市の小学校だと思います。以前はもっと山梨に近い小学校もあったんですが休校になっています。

 「人穴浅間神社」というのも存在していて、富士山が「世界文化遺産」に登録された際の構成資産のうちのひとつです。富士講の修行が行われる場所だったそうです。その後、廃仏毀釈や軍用地としての接収などを経て昭和20年代の後期に今の形になったと富士宮市のホームページで学びました。

 今年は違いますが富士宮で「クマが出た」って場合、その多くが人穴での出来事であったりします。そんな場所です。朝霧高原のちょっと手前っていう私個人の認識ですけど地元の人にとってどうなのかはわかりません。

 女優の工藤夕貴さんのお店がある場所っていうと親近感が湧く方もいらっしゃるかもしれません。

 お父さんの井沢八郎さんもおそらくこの近くにおウチがあったことがあったんじゃないでしょうか。すごい昔のワイドショーでみたんですけど。わりと開けた自然に囲まれているといった環境でありまして、玄関に三色旗がはためいていました。工藤さんは違う宗教みたいですけどやっぱり日蓮系ではあるみたいで。そういう人はあのあたりが好きなんでしょうか。ここが疑問なんですよね、疎い私としては。やっぱり大石寺なんでしょうか。別に身延山でも構わないような気がしていてその辺の加減がわかりません。まぁとりあえず非常に良い場所です。私はもう大好き。昔はオウム真理教とかありましたけど、今は静かですので自転車で走っていると気持ちが広くなります。

 朝も早い時間に通りかかった時に小学校の校門のところで見守り活動をしていらっしゃったおじさんと「おはようございます」と声を交わしたことがあったのですけど、今もそういう活動は続いているかな、とか思います。

 そんな人穴小学校の学童諸氏がですね。修学旅行で東京に行った際に千駄ヶ谷小学校にお邪魔して歓迎を受けた。交流したという記述を見ました。ホームページ上で。しかしこれは驚いたんじゃないですかね。環境が違いますからね。

 私は千駄ヶ谷5丁目に住んでいたことがある関係から土地勘がありますが、人穴と千駄ヶ谷。神宮前とも接する地点ですけど、学童諸氏におかれましては「こりゃスゲえ!」ってなったんじゃないでしょうか。興味があります。

 下のお写真はかつて千駄ヶ谷小学校の近くのお店で買った青いロンジャンです。

 たまたま入ったお店で見かけて購入しました。

 なんかお店の人の話では買いたがっている人が複数いてフラッと現れた私にはちょっと売りたくない感じもありましたがサイズ的にもよくて、デザイン的にも装飾が少なくて飽きがこないかなと思って買ったのでした。深みのある青色も気に入っています。問題はあんまり着る機会がないんですよね。毎回言ってますけど。かつての私は真夏でも革ジャン着ているタイプでした。この青い方じゃないですけどね。これはもう私が東京を離れるちょっと前とかに買いました。あんまり着込んでないです。

 「ロンジャン」って一般に浸透している名詞なんでしょうかね。

 ファッションに関連する知識がない私ですのでわかりませんけど、パンクロックが好きな人の間では「ロンジャン」で通じると思います。

 「ロンドン系の革ジャン」っていうような意味です。

 より実態を表す表現としては「イギリス系の革ジャン(ライダース)」なんですけど、「イギジャン」よりも「ロンジャン」の方が言いやすいとか、そんな感じなんでしょうね。

 一般的によく見るのは「USタイプ」と呼ばれるんじゃないかと思います。

 マウンテンのレスリー・ウェストさんが着ていたUSタイプの革ジャンの幅というか身頃というか広くて広くてびっくりしたことがあります。あの体格に合う革ジャンもあるんだっていう驚きでした。

 私がお写真の革ジャンを購入したお店は神宮前でした。住所としては。千駄ヶ谷小学校とは通りを挟んで向かい側になってしまいます。昔、カエルカフェっていうお店があった近所です。

 カエルカフェというのは、サンプリングで音楽を作る人に向けて音の素材が入った音声CDをたくさん作って売っていたお店です。このあたり懐かしい話題ですね。読んであぁそうかって理解できる人も少ないと思いますが。

 鳩森神社の東側の道を下って行くと坂の途中に自転車屋さんがあったんですけどもうこの辺りもすごく変わっているようでネットで見る私には全然わかりません。さらに古い話になると非ッ常に恐ろしい外観をした廃屋があったんですけど、あれがなくなったのっていつのことだったんでしょうか。

 これくらい長くしたら読む人もいないかなと思いますので終わりにしましょう。ありがとうございました。