「イラスト」カテゴリーアーカイブ

年賀状イラスト

 今年の年賀状として作成したイラストを公開いたします。

 「コウモリ・イラスト・シリーズ」はきのうで終わりなのです。

 ───────────────

 解説いたします。

 去年に引き続いての「ペン画風イラスト」です。1ヶ月ぶりに画像を見返してみたんですが、反省点ばかりです。しかし描いていて楽しい。もう少しこの画風を突き詰めたいという気持ちです。

 ───────────────

 描かれている内容についても説明します。

 富士市に伝わる伝説というか、昔話が元になっています。

 「龍巌淵(りゅうがんぶち)」に住んでいる龍の神様と、村人たちの物語です。

 龍巌淵は潤井川(うるいがわ)の途中にあるんですけど、岩がゴロゴロしています。岩は溶岩です。もうこのあたりにはイヤッてほど存在する「川と大きな岩」の組み合わせなんですけど、さすがに龍巌淵と名が付くだけあって、ひときわ立派な奇景になっています。

 伝わるお話の内容を簡単に説明いたしましょう。

 気になる方は改めてネット検索していただければ富士市が提供するPDFが読めると思います。私はさらに「もう少し調べればもっと詳細な物語の全貌がつかめるのでは……」と思い、市の博物館に置いてある少し古い本も調べてみたんですけど、だいたい今に伝わる内容と同じでした。おそらく昔からさほど変わらないかたちで伝わっているのだと思います。そこまでは確認してきました。

 次はお話の詳細です。

 結婚式を開くにあたり、100人分のお皿が必要なのだが足りない。ということになりまして、お屋敷に仕える下男の人が「さがしてきて」って頼まれる。しかし見つからない。どうしようかと川のほとりで困っていたら「貸しても良いよ」と龍神様が現れる。「助かった」と思って借りて、用事が終わって返却。そんな感じで龍神様のお皿レンタルは続いたのだそうですけどある時、「1枚足りないけどまぁイイや」って黙って返却したらその後はもうお皿を貸してくれなくなりました。めでたくない。めでたくない。というようなお話なのです。

 素朴な昔話って「これのドコに教訓だったりカタルシスがあるんだ?」みたいな投げっぱなしのものも多いですけど、「龍巌淵の伝説」には教訓がありますね。ちゃんとね。

 ───────────────

 つづきましては市外とか県外の方に向けた「龍巌淵ガイド」です。この地はおすすめです。問題点があるとしたら駐車場とかがたぶん存在しない。電車の身延線(みのぶせん)に乗って入山瀬(いりやませ)駅で降りてちょっと歩く、あるいはバス。ちょっと不便かもしれませんね。

 厳密に申しますと「龍巌淵」はこの写真の左側の奥の方になります。

 そこに行けば岩がゴロゴロしているんですけど、このお写真を撮影した1月の8日は工事中でして、工事のおじさんたちが忙しくしていたのでそばに近寄れませんでした。

 橋の工事をしていたみたいです。あんまり広くない橋がかかっておりまして、そこから岩の様子を覗き見るって感じになります。通常であれば。まぁ通行量もけっこうありますので橋の上に立つのも若干気がひけるんですけどね。車がすれ違うのがギリギリっていうような古い橋です。

 さらに追加情報ですが岩がゴロゴロしている「龍巌淵」その地点というのは富士宮市です。このあたりは市の境界線が入り組んでいます。たぶん「橋」が両市の境界になってます。

 上のお写真で写っている手前側とか右側は富士市です。

 つまり岩がゴロゴロしていていかにも住みにくそうなのが富士宮。

 河原が広々としていて、いかにも穏やかな。そして包容力にあふれた住みやすい土地。それが富士市。ということになります。やはり移住するなら富士市ですね。

 一目瞭然。素晴らしい富士市の風景。

 桜が咲く時期には素晴らしく美しくなる地点を収めたお写真です。「桜と富士山」っていう「日本の美」って感じの風景。市外、県外の方でも見かけたことがあるかもしれません。そういう画像を。

 地名としてはここは「鷹岡(たかおか)」というところです。

 鷹岡の魅力については明日またお伝えしようと思います。

 上の画像を拡大してみていただきますと橋っぽい構造物の下に「これ、岩かな?」って思えるゴロゴロが確認できると思いますけど、正解でございまして、それらは岩です。本当に橋の北と南で様子が全然違うんですよね。不思議だなって私も地元の人間ですけど思います。

コウモリ帝国〔18〕

 アタフタしているコウモリさんのイラストです。

 ───────────────

 ラジオ日記です。

 「文芸選評」を聞きました。今日は俳句の日。選者は村上鞆彦(ともひこ)さん。兼題は「雪だるま」。

 私の感想としては「避難所に(子供達が?)作った雪だるまが高々と作ってあったよ」という俳句が良いなと感じました。

 ───────────────

 お昼からは「歌謡スクランブル」で沢田研二さんの作品をたくさん聞きました。

 ───────────────

 「世界の快適音楽セレクション」も聞きました。

 テーマは「水中の音楽」。

 アメリカにおけるかつての奴隷制度から逃れるために川の中を歩けば追ってくる犬の嗅覚にとらわれないというお話がありました。水で匂いが消されちゃうんですね。

 私は以前にこの番組で聞いた「アヒルは離れた場所からも水の臭いがわかるらしい」というお話を思い出しました。

 番組進行のゴンチチの三上さんが何かのテレビ番組でアヒルと散歩するという企画をされた際のエピソードなんだとか……。そんなことを思っていたら、やはりその時のことが出てきて「アヒルは体温が高いから水に浸かって涼みたいという欲求があるのでは」という考察がなされていました。おもしろかったです。

 番組の後半で、Japanese Breakfastという名前のバンドというかソロ・プロジェクトの楽曲「Diving Woman」を聞きました。これは良かったです。

 エレキギターが音色的な面でもがんばっていました。非常に深く潜っている感じをよく表現できておりまして、大した力量の持ち主だなと感じました。ゴンザレス三上さんの選曲でした。

 私の感想としてはニューウェイヴ的な感性を感じましたが、ネットに書かれた文章を参照してみると「実験的なポップ。ローファイ。ドリームポップ。シューゲイザーであったりチェンバーポップであったり、アムビエントな領域にも侵食している」というような記述でした。おおむね納得できます。

 ───────────────

 私にとっての「水中な音楽」についても書いておこうと思います。

 「Louis Jordan & His Tympany Five – Tear Drops From My Eyes」です。ルイ・ジョーダンさんの曲ですね。「雨と私の涙」って感じでしょうか。ニューオリンズな感じもあってオルガンが活躍する曲ですね。パーカッシブな音色が良いです。ご機嫌ご機嫌。私の気のせいかもしれませんけど悲しみを通過した陽気さっていう感じなのかなって思います。「あふれよ我が涙」っていう感じもありますかね。ジョン・ダウランドさんの曲ですね。この古い曲の題名を一部流用した「流れよ我が涙と警官は言った」っていう小説が私は好きです。

 「水中な音楽」に戻しますが、以前にも書きましたが、Virna Lindtさんの「Underwater Boy」ね。水中少年。大好きな曲ですので再掲しておきましょう。非常に好きです。

 ───────────────

 以下は個人的な雑感です。

 上の方で「ニューウェイヴな印象を持った」なんていう記述をしました。音楽ジャンルについてのお話になります。

 先日、ネットの短文SNSをみておりましたら、興味深い連なりを発見しました。

 音楽家の掟ポルシェさんが、何か思うところがあったのかその心境を吐露されておりました。

 要約すると「よく行くCDショップにおける音源の配置がどうやら変わってしまったようで探しにくくて往生しましたわ」というようなチッチキチ。

 具体的に申しますと以前は「ニューウェイヴ」に分類されていたものが例えば「ノイズ」の分類に入れられていたりする。「それってどうなんだ!?」みたいな感じだったと思います。

 なるほどね。

 推察するにレコ屋の表に立つ店員さんなんてある程度若い方達でしょうから、彼らの感性で聞いて分類を決めているのだと思います。あるいはそうした世代の方達に通じるコンセンサスに沿った行動であるのかもしれません。

 私自身は「自分と同じものを見ている別の人とのズレ、差異、を知ることが好き」みたいな部分がありますので「従前からの分類と違っているよ」っていう状況を基本的には楽しむ方向ではありますが、マそのへんは人それぞれですし、掟さん的にはお店の中で思いのままに自在に動ける方が良いのだなというのが私の理解です。

 思うにこの「ニューウェイヴ」。私も大好きなジャンルですけど、わかりにくいですよね。きっとね。もうずいぶんと古い概念になってしまいました。

 特にもう世代が違っちゃう人たちにとっては「つかみどころが無さすぎ」みたいな感覚はあるのかな。もしかして。

 私はもう老人ですし、そうした若い方たちの感性がどういう風に伸びているのか探知されているのかがわかりません。

 つなげて書いちゃいましたけど、別にこの段における掟さんのおっしゃりたいことはあくまで特定のお店の分類についてですので、大きなテーマである「ニューウェイヴとは何か?」みたいなお話ではありません。そこはキチンと断っておかなければなりません。

 しかし気になるところではある。そんな向きの方がもしかしたらこの当ブログに足を踏み入れてらっしゃるかもしれない。僭越ながらこのワタクシが若干のご案内をいたしましょう。

 もう20年以上前になりますけど、掟さんはそうした部分にもおおむねちゃんとした回答を提示されているんですよね。それを思い出しました。

 具体的には雑誌「ミュージックマガジン2002年5月号」における鼎談(ていだん)です。メンバーとしては掟さんの他にDJムードマンさん、湯浅学さん。

 ちょっと紙面を引用しましょうね。

 ホントはこの記事全体が面白くて、大切だなって思うことも語られておりますので気になる方は古書を手に入れていただきたいんですけど、まずは冒頭の湯浅さんの指摘が重要。それを受けての掟さんの解きほぐし、だいたいこれが実態でしょう。やっぱりアヤフヤなものではあるのだと、そう理解できます。

 この2002年っていうのは掟さんがバンドメンバーのロマン優光さんと編んだコンピレーションアルバムを発売したタイミングだそうです。私もそのアルバムは2枚購入しまして、特典のTシャツももらったんですけど、古いことすぎて「2002年のことでしたっけ?」みたいな感じになっちゃってます。つまり「ニューウェイヴ・リバイバルみたいな動き」それ自体がまた古いことになってしまっているんですね。アタマがボーッとしてきます。いやはや。いやはや。

 私にとっての「ニューウェイヴ観」も明らかにしておかないとフェアではないでしょう。「屈折する。苦悩する若者が作った音楽」っていう感じです。当時は世界がどうなってるのかっていう広範な視点を持つこともちょっぴり難しい状況でしたし、「オレの思う今の世界」みたいな前提がわりと普通に通用した、そんな状況にあったと思います。しかしニューウェイヴのごく狭い範囲しか言えていません。ニューウェイヴって広い範囲を指す音楽ジャンルですので全然足りてないのですけど。私個人の思いとして「こういう部分を備えていると私のニューウェイヴ警告灯がバンバン光り輝きますよ」ということです。若者に特有の視野の狭さ、そこから生まれた姿勢であるとか音楽表現が私は好きだな、っていうことです。まだまだアブソリュート・ビギナースですから、見える範囲でものを言って全然良いのではって思います。その後にちゃんと成長していければっていうことでもあるんですけど。

 ───────────────

 あとは近況を短く。

 お正月に発見した「ニューウェイヴ音源の鉱脈」なんですが、ネットの動画サイトで見つけたものですけど、二百曲超を私なりに選別して百数十曲に絞ったわけなんですけど、その処理に今日あたりまでかかりました。

 比較的に音楽を聴く時間には恵まれた環境にあると私は自分のことを捉えていますけど、それでも百数十曲は大仕事でありました。けっこうヘトヘト。疲れてどうするんだと思います。こうした短期間に集中して選別した曲の数々って一年後に聞き返してみるともうサッッッッパリ覚えていないことがもっぱらなんですけど、しかしながら「一応何度でも聞いて興味深いと思える曲を残していたんだな」と思える。マそんな活動ですね。手前味噌なお話ではあるんですが自分で聞いて楽しみたいというだけの活動ですからそれで良いのです。

 もうメチャクチャ調べました。個々のバンドを。一般的にはまるで無価値なしかし光り輝くニューウェイヴだったりシンセポップの細かいヤンゲンストロングな当時の若い人たちの活動に触れるたびに身が震えるほどに嬉しいです。調べていくと亡くなっている方達も多いんですけどね。しかしマそれも仕方ないですよね。