「イラスト・風景」カテゴリーアーカイブ

TROMS〔b05〕ゲラティック号事件〔4〕

 きのうは私がお正月にお友達と自転車でゲラティック号を見に行ったお話をしたんですが、実はその前にも家族で見に行っています。

 その時のお話です。

 きのうの内容と重なりますが、駐車場がないのです。そう報道されておりました。

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 対策として家族会議で決定したのが「夜明け前に出発して朝のうちに見物して帰ってくれば良い」となったのです。

 クルマをチャッと停めて。チャッと見て。チャッと帰ってこよう、というハラづもりですね。

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 ところがですね。1979年。昭和54年というと暴走族がスゴかったんですね。70年代後半から80年代いっぱいくらいが全盛なんでしょうか。

 イラストに描きました通りですけど、ワンワンいってました。

 今でも暴走族は存在していますけど、規模、その権勢ですね。かなり違いました。その年代の人たちの人口数が単純に多いというのも関係していると思いますけど。

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 日曜日のまだ暗い早朝っていうか未明ですね。私たち家族は出発しました。当時は土曜日も仕事アリというのが普通ですからね。

 週休1日制。土曜は半ドンていう。若い方がもしこのブログを見ておられて「半ドン」の意味がわからないとなったらお気の毒ですが、別途調べてみてください。

 そんなワケですから暴走族も「土曜の夜(日曜の未明)の天使(という歌の歌詞があるのです)」なんですね。今でしたら「金・土の天使」。マしかし業種によってはまだ土曜もやるよっていう業界もあるんでわかりませんが。

 戻しますけど、私たち家族を乗せた車がゲラティック号が屹立する柏原(かしわばら、という場所)を目指していって、あと少しってあたりでスッゴい台数の暴走族に遭遇したのです。上のイラストのような感じでございます。かなり大変な思いをして描いたイラストです。

 私たちの車の数台前から立ち往生していました。暴走族によるやり放題です。道幅を占領していて、前に進めなかったのです。

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 暴走している若者たちにしてみればヨッピいて走っていてそろそろ夜明け。最後の仕上げっていうそんな心境だったのかもしれませんが想像です。体力あるなって思います。

 具体的な位置としては、静岡県道380号線。富士清水線。住所としては富士市の大野新田。カーブになっていて下の道から合流する地点よりちょっと東の先。陸橋になっていて信号があるところです。上り車線が信号で停車している状態に乗じて対向車線の下り車線を走っている暴走族が、上り車線まで膨らんできて、発車をはばんでいる状態。

 陸橋ですので、両脇に退避するスペースもない。暴走バイクの集団に対しては停車して機会をうかがうしかなかったのです。

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 ところでこの当時はまだ実のところ、「県道380号線」ではなくて「国道1号線」だったんですよね。私としては静岡を一時離れていた期間がけっこうあるので、今でも「国道1号線」って聞くとまだちょっとこの東海道の名残りっていうか旧道の方を連想してしまうんですが。

 すでに沼津バイパスはかなりできていて、開通を待って国道1号線に格上げになるんですが、鈴川の辺りにインターチェンジがありまして、そこを接続する工事が一番最後まで残っていたんですね。たぶんまだその工事を今まさにやっているとかそんな時期です。79年の10月とか11月頃は。

 私なんかの年代からもっと上の人なんかですと「あそこの工事やってたな~」って思うかもしれません。遠く周囲からも見える見晴らしの良い場所ですので。

 本来であればココで昭和の(旧)国道1号線がイカに混雑していたか。バイパスができてイカに便利になったかについての描写を必要以上にネチっこくクドクドとやりたいところなんですが余談に過ぎますので自重いたしますよ。気になる方はネットの動画サイトで静岡県庁が公開している国道1号線の昭和30年代や40年代の映像を見れば引くほど納得してもらえると思います(動画タイトル:昭和35年 行きづまる東海道など)。

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 ンでね。戻しますけど。

 そうこうしている内に空も白々と夜明けが近づいてくる気配です。車列がすごく長くて、信号が5回くらいは変わっていたと思いますけど全く勢いが衰えないのですね。暴走族の。長さにして数キロは確実にありますよね。大連合ですよ。どうかするとハッキリと暴走族の所属ではないけど、それに近い友人知人も誘われて合流したりしてないとあんな人数にはならないような気もしますけど、どうなんでしょうか。

 私らにしてみれば、もう目的地はすぐそこでして、空が明るくなってきたとはいえ、そんなにアセることもなかったなと今にしてみればそう思いますけど、ちょっとジリジリしました。「早く現地に到着しないと他の見物の人たちも来てしまうんではないか。そうすると夜陰に乗じて見物をすませるという計画も崩れるのではないか」という。

 がしかし暴走族はコワい。明らかに気が立ってる感じだし、どうしよう。っていう心境でした。少なくとも私は。(つづく)

TROMS〔b04〕ゲラティック号事件〔3〕

 この事件が巻き起こしたその影響の広さですよね。

 それをお伝えしたい。

 出店が数件発生しましてね。商売が始まったのでした。勝手に。

 それと駐車場をですね。臨時に近くの民家の人たちが始めちゃうという。勝手に。

 しかし何もない場所ですから見に来た人にとってはありがたかったのだと思います。

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 お正月に私は近所の友達と一緒に自転車で早朝に出発して見に行きました。

 いかにも中学生の男の子ですよ。正しいね。

 その日も朝からけっこう見物客が来ていました。お天気にも恵まれまして。

 テレビの中継も来ていたと思います。元旦レポートみたいな感じですよ。各地を結んでのね。静岡県にとっては話題の中心みたいな。そんな存在になっていましたね。

TROMS〔b03〕ゲラティック号事件〔2〕

 この時の騒ぎというか過熱状態ですね。スゴかったです。

 何もないところにいきなりふってわいた大事件。しかも“事件”って言ったら得てして一瞬で終わってしまって後から来た人には目撃できなかったりしますけど、この件の場合には大きな船がドッシリと砂浜に直立しているワケでして。見に行こうと思えば行って見れてしまうという。

 事後たる現状を見るだけでもかなりの驚異です。150メートル級の貨物船が船の大きさとしてどの程度なのか知りませんが、通常は海に浸かっている部分も込みで近くから見上げると「うわー」ってなります。

 物体としての説得力がスゴい。

 しかもそれが地元の何もなかった砂浜に鎮座しているのです。

 時ならぬ大ブームでありまして、近隣住民がこぞってやって来る。しかし船としては安定しているように見えますけど、やっぱりいつナンドキ傾いてドッシャーンって行くかもしれない。危険であると。

 そんなワケで24時間体制で警備員の人が常駐するようになりました。

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 本日のイラストはそんな様子を図化したものです。

 イラストでは猟銃を持っていて「近づくなーっ! 撃つぞー!」っていう感じになっていますけど、これはウソですよ。

 それと船体に強力な照明を取り付けてあるかのように描きましたけど、これもイラスト上の効果が欲しかっただけでありまして。全くのウソです。ちょっとドラマチックにしたかったんですね。ホントは、まっ暗な中に警備員の人がテントか何かの中にいるっていう感じでした。夜であれば。

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 この船はその後どうなったかと申しますと、「もう海には戻せない」という判断が下され、その場で少しずつ解体されたそうです。解体の過程は私は見ておりませんが。

 結局最後まで「倒れた」という報道も耳にしませんでしたので、非常に安定していたのかなと思います。実に奇跡的な出来事でした。

TROMS〔b02〕ゲラティック号事件〔1〕

 2日前に終了した連載では「自分に影響を及ぼしたであろう事象」を主に取り上げました。

 意外に大変な作業でありまして、誤算でしたけど、今でも私が続けていることの根っこがどこにあったかの発見もあって有意義でした。

 しかしそれとは別にですね。「自分への影響はそんなに大きくないにしろ、アレって面白かったな。」っていう過去の体験も当然ながらございます。

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 そんなコトガラのひとつが、上のイラスト。

 大きな貨物船が砂浜に打ち上がっております。

 しかもキレイに直立していた。っていう事件ですね。

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 1979年の10月19日。

 名前をゲラティック号。インドネシア船籍。長さ150メートル。重さ6,300トン。清水の港から出港したものの、台風がヤバい。「救援してもらおう!」と思った矢先に、富士市の柏原(かしわばら)の海岸に座礁しちゃったという(富士市発行「広報ふじ」の記述より)。

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 一因としては富士の海岸が急深(きゅうぶか)であるので、大きな船でも海岸近くまでは寄せようと思えば寄せられる地形だったのも寄与したのではないかと。私は思っています。

 なんかのハズミで船が砂浜の上にヒョイって乗っかっちゃったと。そんな感じ。台風っていうか自然のパワー。スゴいですね。