「イラスト・その他のどうぶつ」カテゴリーアーカイブ

プレーリードッグ帝国〔06〕

 ジッとしているプレーリードッグさんのイラストです。

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 ラジオ日記です。

 今日のNHK・FM「世界の快適音楽セレクション」は再放送でした。

 2年前の放送。番組テーマは「ミラクルの音楽」。

 放送された楽曲のいくつかは録音してありまして。聞き返してみても良い曲だなと思います。

 特に雪村いづみさんの「ネ~コもネズミもチャッチャッチャッ」っていう曲は大好きです。

 私が時たま自作する曲の世界にも近いかなと思います。もっとそういう楽しい曲を作りたいなと思いました。

 あとは録音してなかったですけど、ラヴェルさん作曲の「「マ・メール・ロワ」から 美女と野獣の対話」。良かったですね。

 以前にこの番組ではラヴェルさんの「水」を聞かせていただいたと思いますけど、流れるような感じが似ているかなと思います。

 ゴンザレス三上さんによるコメントにあったスクリャービンさんみたいな質感っていうのもその通りだなと思いました。

  ×  ×  ×

 私にとっての「ミラクルの音楽」についても記述しておこうと思います。

 本放送を2年前に聞いた時にはやっていなかったので。

 なぜやらなかったのか。今となっては分かりませんが、おそらく思いつかなかったんだと思います。それくらい私の手持ちの楽曲の中に「ミラクル」とつくものは少ないです。スーサイドが後期にというかオリジナルアルバムとしてはラストにあたる盤を出した時に入っていた楽曲くらいだと思います。

 そこで発展させまして、「似た語」を含む楽曲に広げてみました。

 すると「超能力」という語であればイイのがございましたのでご紹介しておきましょう。

 同時に「オール・ザ・ヤング・シンセポッパーズ in 80s」でもあります。

 Psychic Youthというバンドの1983年の楽曲「Step In Time」です。

 「超能力若者」っていう名前になるんでしょうか。アメリカはボストン、マサチューセッツ州の人たちだと思います。自主制作として1000枚作ったシングル盤のB面曲。A面の「The Future is Now」も良い曲です。

 バンド自体の情報は多くないんですけど、3人組だったようです。

 そのうちのお一人はお名前をRussell Siminsさんといって、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプローションでドラムを叩いている人なんだそうです。ビックリしました。

 もう一人の方はPerry Geyerさんといってボディミュージックのバンド Manufactureの創設メンバーなんだそうですが、私は知らないバンドでありました。あとは倉木麻衣さんのプロデュースを多数手がけているそうです。これにはビックリしました。

 なんでもボストンの先輩バンドであるザ・カーズのメンバーとつながりを得てカーズが所有していたレコーディング・スタジオを運営することになったみたいでありまして。そうしたキチンとした商用スタジオ経営の一環として倉木麻衣さんを手がけることになったのかなと思いますが妄想です。

 ザ・カーズといえばフロントマンだったリック・オケイセックさんはスーサイドを多数プロデュースしておりますので、この文章の最初の方ともつながりました。妙にウマくいきましたね。

 こうなりますとPsychic Youthの残るお一人のその後の足取りも気になりますけど情報は見つかりませんでした。残念。

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 NHKラジオ第1「文芸選評」も聞きました。

 今日は短歌の日。テーマは「スプーン」。選者は川野里子(さとこ)さん。去年の同番組におけるテーマが「フォーク」だったそうでありまして。川野さんのコメントによりますと「食器には特有の柔らかいフォルムがある。人間の命に近い」とのことでした。たしかに特にスプーンですけど、やさしい形をしているなと感じます。

 番組に寄せられた短歌もやさしいものが多かったと思います。

 私が好きだなと思った短歌について記述します。

 ・喜ぶ子供が体をくねらせる様子にユリ・ゲラーさんの「スプーン曲げ」を重ねた面白い短歌。

 ・シベリア抑留を描いたと思われる捕虜の人たち手作りのスプーン。くぼみを大きくえぐって作られている、という短歌。

 あとは川野さんご自身の生活として野鳥が肩の上などにとまっていくという自然環境についてのお話を聞きました。

プレーリードッグ帝国〔05〕

 今日のイラストも吠えているプレーリードッグさんのイラストです。

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 きのうの続きです。

 献血とボランティア保険加入を済ませまして、せっかく外出したので市内を見て回りました。

 まずはこちら。石碑です。

 これはザックリいって「農地回復の石碑」って感じですかね。

 石碑に刻まれた大量の文字を気温34度の中で読むのは大変です。

 しかし良い掲示物がありました。

 以上のような感じであります。なるほどね。

 富士市の場合、公民館のことを「まちづくりセンター」って言うんですが、「富士南まちづくりセンター」の駐車場の隅に石碑がたっています。

 このあたりに旧日本陸軍の飛行場があったということなんです。

 「富士飛行場」と言ったそうです。

 規模としては東西に1キロほど。南北に2キロほどだったそうです。

 位置としてはザックリ申しますと、富士川に接する感じの富士市西側の土地。新幹線の線路の南側から海のそばまでってことになります。今の市民感覚ですと「富士の南中、南小、1号線はさんで工場いっぱい建ってるとこいらへんダラ」って感じですかね。

  ×  ×  ×

 元は人が住んでいて農業をしていたんですけど、短期間のうちに「田畑売り渡しの上退去せよ」っていうことになったみたいで。

 「富士市史・下巻」の720ページあたりからの記述を参考にしますと昭和19年の2月に軍の人が来てみんなを集めて言ったそうなんですね。富士見高校の講堂だったそうです。古い歴史を見ていくとけっこう富士見高校というか当時は富士見高等女子学校といったそうですけどよく出てきますね。それで当然ながら土地の人たちは苦悩したんですけど5月いっぱいで移転するムネ承諾したという。

 この移転作業についても例えばお父さんが戦争に行っている家庭なんかは困ったっていう何かの記事で読んだことがあります。そりゃそうだ。踏んだり蹴ったりですよね。

 建設資材の提供も別段なかったってことなんですけど、土地の人たちが協力してなんとかなったという騒動。かなり乱暴な話だなっていう感想を持ちました。

 6月から造成作業が始まって12月に完成。その翌年が敗戦ですから、8ヶ月ほどの運用ということになります。

 造成作業については、近くの岩本山(いわもとやま)の石まじりの土砂を運んできて埋め立てたということです。当然ながら農地としては死んだわけですね。

 上のお写真にあった通り、戦後10年ほどの時間をかけて元の美田を取り戻した。

 ぶっ壊すのは一瞬。元に戻すのに10年ということですね。

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 つづきまして「農地としての土地改良」に関連する物件について見ていきましょう。

 入道樋門(にゅうどうひもん)です。水門ですね。

 おだやかに水を保持しているようすです。

 向かいに見える工場は「ポリプラスチックス富士工場」です。

 脇にこの水門の歴史を記した石碑がみっつも建っていました。

 それによると昭和9年。昭和28年。平成16年という改良工事の歴史があるということでした。

 すみません。またもや私自身が写り込んじゃってますけど。

 水門周辺は公園になっておりまして「入道樋門公園」といいます。

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 入道樋門から東に1キロくらいにある石碑も見てきました。

 こちらは上で述べました富士飛行場を作るにあたり働かされた中国の人たち、そのなかでこの地で亡くなられた方たちの慰霊碑ということになります。

 富士市においては毎年7月に慰霊の会みたいなことがされているんですけど、だいたい7月の上旬なので、もう行われたか、すぐにあるか、みたいな日程だと思います。

 ちょっとデリケートな問題かもしれませんけど、日本人として日本の歴史に関わりこの地で心ならずも亡くなった人に対して哀悼の誠を捧げるに何の不都合があるのかというのが私の意見です。

 ネットの地図とにらめっこで「たぶんここじゃないか」って感じで行ってきました。

 そんなに広い場所じゃありませんでした。個々人が行って頭を下げてくるっていうのが良さそうです。

 一応、ビールをそなえてきました(写真の左隅)。自転車ですのでノンアルコールです。

 たぶん昭和の労働者にはビールじゃないかってことで行く途中で買ってきたんですけど、お店の保冷棚が故障中で冷えておりませんで。失敗だったかなと思います。

 それと、おそなえしたあとで自分で飲んだんですが、この私がビールが苦手だという。意外にマズくはないんですが、苦くてね。大変でした。今度またいつか来る際にはもうカッコつけないで自分が好きなやつでノンアルコールにしようと思います。

 話がそれましたけど、「あんたらも気の毒だったね」と心の中で呼びかけておじぎをして帰ってきました。

 それ以上かける言葉もないですよね。つらかっただろうと思います。若い頃に肉体労働をしていた時のことを思い出します。当時でも別業種でしたが東南アジア系の人っていましたけどね。しかしそれは工務店のボスと思われる人がその人たちの国の言葉をしゃべれる人であってワイワイやってる感じでしたけど。あとはトヨタの車を組み立てる仕事をしていた際にも外国の人はたくさんいましたね。まぁそんな私の昔話は良いんですけど。

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 当時の飛行場建設についてちょっとだけ詳しくいっておきましょうか。

 これも「富士市史・下巻」からでございまして、720ページあたりからの記述です。

 上の慰霊碑のくだりで中国からの人が500人ほど、そのうち50人ほどが亡くなられたということを知ったわけですけど、それ以外にも多くの人たちが関わっています。朝鮮人労働者もいたということなんですが、もちろんこの富士地区の人たちも多く作業したと。つまりビックリするんですけど今の富士宮の人たちも動員されているんですよね。

 富士地区っていうか当時の言い方でいう「富士郡」全体として昭和19年の7月20日より2,100人という規模の求めがあったということです。

 ヨソの人がこのブログを見にきてくださっている場合、土地のスケール感がわからないと思いますけど、遠くは白糸、上野、柚野(ゆの)、芝富、これは旧芝川町のことですね。かなり遠いですけど身延線に乗ればまぁ行けるのか。上井出とか白糸からの人も大変だったでしょうね。泣けてきますよ。

 つまり今の富士宮市全部。当然ながら今の富士市の全村にも割り当てが来たということです。これはすごいね。国家総動員法の現実を見る思いです。

 割り当ては人口に応じて何割みたいな計算だったのかもしれません。吉原町に来たのが一番多くて300人超ということだったみたいです。当時から人がたくさんいたんでしょうね。

 あとは報酬。年齢とか性別に応じて日当がだいたい1円から2円。

 以上のような感じでありまして全て「富士市史・下巻」よりの引用です。本日は以上です。

 いやー。大変な話だなっていうのが私の感想です。みなさんにおかれましてはいかがでしょう。

 明日はまったく別の話題になりますが続きます。

プレーリードッグ帝国〔04〕

 「キャン!」って吠えているプレーリードッグさんのイラストです。

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 日記的な記述です。

 本日は午後に献血のため市役所に行きました。

 無事に献血を終了しました。

 タオルとバッジをもらいました。

 このバッジにはサンリオの小さな犬くんの意匠があしらわれています。ポチャッコくんという名前なのでしょうか。

 この前にもバッジをもらいまして、その時はクロミちゃんでした。

 この先も献血回数が基準に達すると何か頂けるそうなんですけど、これまでにふたつバッジをもらいましたので、バッジ・シリーズを集めるのも良いかもしれません。

 別に景品目当てではないですけどね。

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 今日は静岡県内におきまして、とても気温が高い1日だったようです。

 おとなりの静岡市の平野部では39度超に達したとか。殺人的です。

 どうやらフェーン現象と、日差しの厳しさが複合的に作用しての結果なんだとか。

 私がウロウロしていた富士市内では34度だったそうです。それでもやっぱり暑かったです。

 富士市から三島までのいわゆる静岡における“東部”というのは三方向を山に囲まれておりまして、おとなりの静岡市とはまたちょっと気候が違うんですよね。

 特に富士山の大きさ、高さというのはこれまで良い方に作用したことがいくどもあったんじゃないかと思います。

 しかしこの先何かのきっかけで変化が生じても不思議ではありません。

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 私自身の体調についてもメモしておこうと思うんですが、かなり暑い中を自転車で今日は献血のあとにもウロウロしたんですが大丈夫でした。水はたくさん飲みました。

 去年も書いたと思いますけど、このところ暑さに体が慣れるのが早い気がするんですが、ひょっとして加齢のせいで気温を感じにくくなっているんじゃないかという心配もあります。

 還暦も近い私は、つまり単なる老人でもあります。

 自分の体のことを注意深く観察して行動しようと思います。

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 献血の後、その足で、富士市内の保険関係の役所みたいな施設に行ってきました。

 通称「フィランセ」です。

 ボランティア保険に加入してきました。

 上で述べました「気象の激甚化」みたいなことにも関係するんですが、報道なんかで見ますとおり「雨がヤバい」。

 おとなりの沼津なんかでもつい先週ですかね。低いところに水がたまったとかで大変だったみたいです。

 逆サイドのおとなり清水区でも、おととしに広範囲で被害がありました。

 もしもの時のために保険に加入しました。たぶんボランティア活動をするためにはこれが必要だと思うんですよね。詳しくは知らないんですけど。

 何もなければそれが一番ですけど、どうしても人手が必要な局面というのはありえます。役立つことがあるかもしれません。役立たない方がもちろん良いんですが。

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 本日はその他にも主に富士市南端をウロウロしたんですけど、その続きにつきましては明日以降に記述しようと思います。

 今日はもう眠いです。

 そうだ。ラジオ日記的には俳優の筒井道隆さんと、同じく俳優で音楽家の六角精児さんのお二人が、揃ってジャズ側の人間であるということを知ることができました。収穫でした。