「自分史」カテゴリーアーカイブ

TROMS〔20〕行商のオバちゃんのシラス

 私が幼児であった頃には港のソバに住んでいた。という事情にも通じるんですが、朝にリヤカーを引いたおばちゃんがおサカナを売りに来ておりました。

 そうしたようすをイラスト化してみました。

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 リヤカーの後部の幼児が手にしやすい位置に狙いすましたように、ゆでたシラスがザルかなんかに入って置いてあったんですね。

 幼児の子だとそれを手づかみで食べちゃうんですよね。頭のどこかでは「食べちゃダメ」っていうのもあるんですけど。売り物なんですし。

 イラスト中でモグモグと食べているのが私と妹。そしてビックリしているのは母親です。

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 小さい子は親であるとか周囲の人に「食べなさい」って言われるのが常ですし、食べるとむしろ褒められるという習慣づけもありますから、ついモグモグやってしまうんですね。

 行商のおばちゃんもニコニコしておりました。シラスを買ってくれるだろうという期待もあったんだと思います。

 そんなお話でした。

おばちゃんのナワバリがどの程度であったか不明ですが、漁協の建物から距離としては2キロちょっと

 思うにこの時代。つまり戦後から20年ちょっと。その頃の行商のおばちゃんっていうと、戦争未亡人、戦争寡婦(かふ)であったかもしれません。

 当時の事情を調べた方の論文をPDFで読んだんですが、1925年の調査時に35歳未満の婦人が7割であったとかで言葉も出ませんでした。総数は50万から60万人と言われていたそうです。(戦時から戦後にかけての「戦争未亡人」の生活と意識 川口恵美子)

 しかし、「富士市における行商のおばちゃんの事情」については、あくまで私が「そうであったかもしれない」って推測しているにすぎません。

 行商という職業が、社会的な福祉の施策の一環をになっていた、かもね。っていう話です。

 以前に何かで知って、「駅のキオスクのおばちゃん」にもそうした一面が、かつてあったと知って驚いたんですが。

 富士市が発行している「広報・ふじ」という大変に素晴らしい冊子があるんですが、私が生まれた年のそれを読んでいたら、「終戦の年に生まれた人達の成人式が行われました」っていう記事があって、自分の生年と終戦からの距離を確認したことがあったんですが、付随する図版としての当時の人口動態ですよね。それがございまして。

 もうハッキリと戦争で亡くなった男性の数が傾向として現れていて、こちらでも言葉を失ったのでした。あの人口バランスを見るに富士市にも相当な数の戦災寡婦の人たちが居たとしてもおかしくないのではと思うんですが、実態についてはまだ無知な状態でいる私です。

TROMS〔19〕ふたむね並ぶ木造小学校

 ここまでしばらく私個人の実体験からは離れた記述が続きました。

 しかしまたですね。戻しますよ。私の幼少時の体験にね。

 田子の浦幼稚園に通っていた頃の思い出です。

 木造の校舎が“ふたむね”並んでいます。

 これは幼稚園の建物ではなくて、小学校の校舎です。

 実は私、幼稚園の建物の印象よりも小学校の校舎の印象の方が強く残っているのです。そんな思いからイラスト化しました。

 幼稚園と小学校が同じ敷地に建っていたと思うんですよね。確か。さほど離れていなかった記憶です。小学校の校舎を眺めながら、園児である私たちなどは運動場で遊んでいたと思います。

略図ではありますがこんな感じ。校舎の向き含めて敷地全貌モロモロ自信はないですが。

 ちょっとした交流がありました。

 幼稚園の子たちが小学校のクラスにおジャマして、小学生のお兄さんお姉さんが作ったり描いたりした「図画工作」ね。これを見せてもらうという機会があったのです。

 当時の私はもうすでにお絵描きが得意な幼児でありまして。

 幼稚園の園長先生に「この子は将来、絵描きさんになるね」なんて言われたこともあったそうです。

 私自身の自覚としても「ボクは他のみんなよりちょっと絵を描くのがウマい」みたいな気持ちがあったと思います。

 ところがですよ。小学生のお兄さんお姉さんが描く絵はそれを上回っていると知ったワケです。断然スゴいと。

 自分はそれなりの絵が描けるかもしれないけど違うんだと。成長したらもっと素晴らしい絵を描けるようになるのだ。そんな期待。あるいは向上心みたいなものですね。初めて芽生えた殊勝な心持ちですよ。

 その日以来、小学校の校舎の中ではお兄さんお姉さんが今の自分よりもハイレベルな創作活動を行っているのだという意識ですね。これをビンビン感じていました。

 そんなワケで、この木造校舎が並んでいる風景はよく覚えているのです。ある面において私の原点でもあります。

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 映画「ゴジラ対へドラ」を見ますと、よく似た場面が出てきます。

 この木造校舎が並列に並んでいる感じ。

 まぁ他の地域にも類似する様式というのはあったかもしれませんが、あの映画は田子の地域あるいは富士市内でロケをしていますからね。

 それと特撮映像作品「スペクトルマン」を取り上げた時にも書きましたが、当時の漁協あるいは地域の人たちの協力ですよね。

 「田子の浦幼稚園」「田子の浦小学校」っていうくらいですから至近なんですよ。田子の浦の港とね。

 根拠はないんですけど、おそらく田子の小学校、その校庭で生徒や先生がバタバタと倒れるシーンはね。撮ったんじゃないかなぁと考えています。映画ですと一瞬ですが、私にとっては別の意味もあって感慨深いです。

 お兄ちゃんお姉ちゃんたちに混ざってお絵描きしたいな、とか、もっと絵をウマく描けるようになりたいな、とか思っていた幼児の頃の自分が思い出されるんですよね。というお話でした。

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 映画「ゴジラ対へドラ」について蛇足的なメモをしておこうと思います。

 あの映画に出てくる野外ロケの全てが富士市である。というワケではないんですね。これは「スペクトルマン」の1話、2話についても同様で、富士市以外の土地で撮った映像が組み合わさっています。

 しかし当時の富士市の風景が多く映っていることには変わりありません。

 たとえば子役の坊やが住んでいるおウチ。

 設定上は子役の坊やとおじいちゃんなんかが同居するお宅だということになっています。

 おじいちゃんの職業が「漁師さん」だと知って、のけぞりました。

 富士市民なら誰もが思います。

 「あの辺って原田(という地名です)ダラ? 漁師の人が原田なんかに住むワケニャーじゃん。ウソくしゃー(うそくさい)」ですよね。けっこう内陸なんですよ。ていうか東名高速道路の側道あたりです。

 標高にして50メートル前後はあります。もう直近から急激な斜面になりまして。

 子役の坊やが坂道を登ってくるシーンを見てもらえるとわかると思うんですが傾斜がヤバい。煙突だったり工場だったりの風景が坊やと同じくらいの位置に重なりますが、あれも原田のあたりからの独特な見え方です。

 映画の話なんで別に漁師の人がドコに住んでいようと大した問題じゃないかもしれませんが地元的には違和感があるよというお話でした。

 ただし映画の最後の方で裾野の演習場のあたりでゴジラとへドラが戦うことを思うとですね。田子の港と演習場をつなぐウマい位置にはあるなっていう気はします。

 坊やが住むところの原田のお宅からカメラが右に振れて場面転換する場面がありますけど、あの方向感覚は絶妙です。富士市の人間ですと「お、愛鷹山(あしたかやま)の方なのか」って思いますね。実際その裏の方ですからね。決戦場はね。

以前に別の目的で作った説明イラストを流用します。バンが走っているあたりが原田のあたりだと思っていただければそんなに間違っていません。

 あとはもう土地の人間が書かずとも納得がいくかもしれませんけど、ゴーゴー喫茶ですよね。あれは無いです。モデルになったお店は当時の日本でも最先端の「MUGEN」だっていうことですから、あるワケがないです。ここ富士市の言葉で言いますと「ニャーだよ。富士にアンなモン」ですよ。

 映画ですと、港のごく近所にお店があったみたいに描かれていますけどね。

 富士宮ミキさんもいませんからね。

 ただし、原田のとなりに「比奈(ひな)」という地区がありまして、ここは富士市における「かぐや姫伝説」の残る場所だっていうことは書き添えておきたいです。

 富士宮ミキさんとかサカナ人間が踊っているヒトならぬ雰囲気。通底するものがあるんじゃないかって思います。思いますけど映画製作としての意図には含まれていないと思いますが。

 最後に、麻雀をしてる民家ね。アレはあったと思います。田子とか鮫島。鈴川、元吉原。どこかで絶対にジャラジャラやってたと思います。ヘドロ弾。あるいは硫酸ミストを浴びて絶命ですよね。お気の毒ですよ。

TROMS〔18〕私なりの怪獣ヘドラさん

 ゴジラ映画に出てくる「ヘドラさん」。この怪獣は、ここ富士市、地元の人間にとっては特別な存在になると思います。

 イラストにしてみましたよ。

 しかし著作権というものがございますので、私なりに翻案してみました。

 仮面ライダーに出てくる怪人「十面鬼」にも似ていると思いますが。

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 公害の成り立ちって、第一義的には配慮の足りない企業活動にあると思うのですけど、汚染の原因に対する無作為だったりを支える民衆の気持ちですよね。世論って言えば良いのかもしれません。それらに支えられて立つもの。そうした構図もまたあると思うんですよね。

 私が考案したところのヘドラさんは特に意思も持たず何かを発することもないのだけど、その体内には住民個々人としての欲望などが多く埋まっている構造にしてみました。

 ブヨブヨとしていて、埋まっている個々の欲望。それ自体は押せば引っ込んだりします。しかし消滅するワケではなくてなんども浮き上がってくる。手ごわい感じ。

 想像力の無さと無責任さが招いたモンスターとしての存在です。

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 本日は文章が短くまとまりましたので、過去のイラストを再掲しておこうと思います。

 まずはヘドロの原因となった工場をロボット怪獣に見立てて、キュウリを投げつけている怒ったカッパさんのイラストです。

 背景周囲を飛行しているのは木花咲耶姫(このはなさくやびめ)ですとか役行者(えんのぎょうじゃ)です。このイラストは気に入ってるんですよね。自分で言うことじゃないですけど。

 次に映画「ゴジラ対ヘドラ」の冒頭のシーンを描き起こしたものです。

 この場面で映る河川は、その名前を「沼川」と言います。

 きのうの当ブログで「暴徒化した群衆が工場の正門を倒した」というような記述をしましたが、その裏側に位置します。方角でいうと北。工場の敷地の北側が沼川に接しているという関係です。

 沼川にはカッパの伝説が3つくらいあるのだと「鈴川の歴史」という本を読んで知りました。

 ひとつは前から私も知っていたのですが、この沼川というのは昔から富士市の“カッパどころ”だったみたいです。

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 田子の浦のヘドロを語る際には、どうしても地名としての「鈴川」。それと河川の名前としての「沼川」が出てきまして、錯綜しますけど両者は別物です。別に富士市に何の関係もない方におかれましてはアタマがゴチャゴチャしてしまいますけど、理解していただけると幸いです。

TROMS〔17〕工場正門のトビラを打ち破る

 ネコのオジさんが暴れるアニメを作ってみました。

 ヘドロ除去を求める暴動のようすです。

 製紙工場の入り口に漁民の人たち、あるいは近隣住民が押しかけて鉄の扉を押し倒したという事件でありました。

 「鉄の扉」。「ゲート・オブ・スチール」ですよ。ブランニュー・ダンス。DEVOというバンドの曲ですけどね。違いますけどね。

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 ことのイキサツを記したいんですが、1970年の8月に2回ほど海上デモと、陸上における決起集会があったみたいです。

 参加した人数としては初回が2,000人。2回目が5,000人だったと伝わっています。海上と陸上の合計人数だそうです。

 漁民の人達の当時の状況というのは、海洋汚染が及ぼす漁獲高の減少だったり、何よりも食の安全性を脅かす事態に大変な危機感があったみたいで、当時はよく連帯する行動が見られたようです。この件を調べる上で久しぶりにPCB汚染という言葉を発見して懐かしい思いにかられました。

 デモのようすに戻しましょう。

 場所としては、海上は田子の浦港。陸上の方はJRの吉原駅周辺。

 集会の後に行進して大昭和製紙の鈴川工場まで行ったようです。

 距離的にはすぐソコなのでアッという間に終わる行進です。

 行進にまで参加した人はかなり少なかったみたいです。

 全体的なトーンとしてもわりあいに静かだったようで。これは意外でした。

 しかし初回の時にどうやら若い学生さんが50人から60人程度いて、かなり暴れたと書いてありました。たぶんこの時でしょうね。扉っていうか門を倒してしまったのはね。

かんたんな地図

 ちなみに「歩く」を土地の言葉では「あるって行く」。短くして「あるってく」って言ったりします。

 もっと戦慄する言い方としては「やんでく」って言います。これはわからないですよね。

 しかし「歩く」を「あゆむ」って言い表すことを思うと「あゆんでいく」が「やんでく」に変質したのだとご納得いただけるのではないでしょうか。

 使用法としては「これからどうすんの?」「やんできゃーるラ(歩いて帰りますよ)」みたいな感じです。

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 話が異様な響きの当地の方言についてソレましたけど再度戻しますよ。

 デモがあるのだと事前に大昭和製紙側も知っているので扉を閉めて警備の人員も置いて守っていたらしいのです。

 しかし多勢に無勢。扉が倒される。そんな象徴的な活動があったのでした。

 それ以上の発展はなかったみたいです。

 イラストとしては、そのくだりを図にしました。

 扉を倒してヤイノヤイノ言ってる感じですね。

 ツイスト・アウェイ。ツイスト・アンド・シャウトですよ。もしかしたらDEVOの人たちはこの騒動を知っていて、この一件を「ゲート・オブ・スチール」という歌にしたのでは?って思いますけど、もちろん私が考えたウソです。

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 申し遅れました。実は今回ですね。この「鈴川地区」の歴史を知るために市の図書館に行って本を読んできました。

 その名も「鈴川の歴史」。

 鈴木富男さんって方が書いた1981年発行の本です。地元の「鈴川区管理委員会」が出版したものです。

 鈴川の地において新しく大昭和の工場を建設した際のエピソードも載っていました。昭和7年のことだったそうです。

 意外に土地の買収は困難というほどのものでもなかったとか。つまり「土地に産業が欲しい」という気持ちが地主その他にあったのではという推測でした。

 地元の人たちの職場なんですよね。ちょっと前の当ブログの記述とも関連しますけど。

 水俣病におけるチッソという企業のその立ち位置とも同じで、公害のメカニズムってどこもこうした非常に切ない事情が多くを占めていたんだなって思います。

 公害が及ぼす騒動、その罪深さっていう構図かなと思います。地域の分断、家庭のひび割れですよね(サムラ・ママス・マンナというバンドのアルバムタイトルです)。