「自分史」カテゴリーアーカイブ

TROMS〔24〕鈴川のむかし

 今回の内容は書籍「鈴川の歴史」からの受け売り。それがほぼ全てです。

 古いことなので今まで知らなかったことが全部です。

 イラストの説明に参りましょう。

 上の方から見ていきます。

 富士山。そして波。これは「鈴川」の位置するところを表しています。

 蒸気機関車の駅があって、ホテルなんかもあったようです。

 それと、きのう取り上げましたが、富士塚。

 下の方には馬がいます。それとピストルを空に向かって撃っているクオッカワラビーくん。シルクハットをかぶった正装です。

 鈴川には昔、競馬場があったのです。今でも地図を見ると半円形の道筋が判別できます。

 イラストにはしませんでしたが競輪場もあったようです。競馬場よりもさらに海寄りに位置していたそうです。

 以上のような感じでありまして、かなりモダンな地域だったんですね。

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 もともとこのあたりは東海道の宿場「吉原宿」であって、渡船場がありました。西側の田子地区と結んでいました。

 津波に押し流されて吉原宿は内陸に再建されたんですが、往時のにぎわいがよみがえったかのように思える時期が明治以降にあった。しかしまた津波が来てご破算になったというのが全体像なのかと思います。

 昭和天皇が皇太子の時代にゴルフの練習のために沼津の御用邸から鈴川の浜まで来ていたこともあったようです。

当時の人たちが感激して建立した石碑です。2013年に撮影

 別荘地だった時代もあって明治二十年代の半ばから男爵の久我(こが)さんであるとか岡部さん、歌舞伎役者の市川左団次さん、市川団十郎さんなどの方たちが過ごしていたそうです。

 明治32年10月7日に津波が来て、低い土地にあった別荘は流失。高い土地に別荘を構えていた上記の男爵の方なんかは津波の後にもこの地で過ごしていたとのことです。昭和の初めあたりまでは残っていたそうですけど、大昭和製紙が鈴川に新工場を立てようと土地を買い始めたのが昭和7年だっていうことですので入れ替わり。時代の転換がそのあたりにあったのかなと思います。

油槽所の話を何度かしていますので写真がないかと探してみました。対岸より。2013年の撮影

TROMS〔23〕富士塚・鈴川

 本日のイラストは富士山の妖精みたいなヒトが「石が積まれた小山」の上に座っている絵です。ちょっと怒ってますね。

 うしろにはスペクトルマンっぽいヒーローと怪獣が戦っているようすを描きました。著作権を意識して、あえて実際の画像を参照しないで描いたんですが、ウマくかわせておりますでしょうか。

 背景として石油基地というか石油タンクが並んでいるようすを配置しました。これらは「田子の浦の油槽所」です。

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 今日から数回、「鈴川(すずかわ)」について記述していこうと思います。

 すでに何回か書いておりますがヘドロの原因企業として名前が挙がることも多い「大昭和製紙・鈴川工場」が存在した区域です。

 位置的に言うと「田子の浦港」の東側です。

 「石が積んである小山」の説明をします。

 これは「鈴川の富士塚」と呼ばれるものです。

 山岳信仰としての対象たる富士山を象徴するものです。江戸時代に流行したようです。

 東京のソコカシコ、あるいは山梨県に「富士塚」と称する小さな塚が残っています。

 私がかつて暮らした東京都内といいますか新宿、渋谷でいうと成子坂下付近の神社にありました。税務署に行くときに私が通っていた道の脇でした。それと千駄ヶ谷の将棋会館の向かいにある神社ですね。こんな調子ですからけっこう点々とあるんだろうな、今でも。って想像しています。

 古くからあった古墳を転用して、より富士山っぽく造成したっていうケースもあるんだとか。

 以上はすなわち「富士講」です。

 修験道の盛り上がりよりも時代としては後になるみたいです。

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 妖怪なんかのビジュアルイメージが確立して、“おそれ”という位置から“物語上のキャラクター”みたいなものに変質、浸透していったのも江戸時代だっていうことなんですけど、ザックリ言ってお手軽なマインドっていうのは江戸の頃からなんですね。信仰にしろ。そんなふうに捉えているんですが私は。

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 富士塚が鈴川の地に据えられたイキサツについては江戸時代の初めには東海道の宿場だったのが関係しています。吉原宿です(後に内陸に移転)。

 江戸の町から歩いてきた旅人が宿に泊まる。起床して海で身を清める。

 石を拾ってきて富士塚に積んで拝む。

 富士山へ向けて歩き出す。っていう流れだったみたいです。

2013年に撮影したものです

 富士塚から見て真北に位置する富士山ですが、当時の富士登山の道のりとしては、直進というよりは斜行する感じですね。

 富士宮市の奥の方にある村山浅間神社を目指したみたいです。当時は。今でも登山道としては「富士宮口」からって感じですけど、実は折り入ってお伝えしたい大切なことがございます。

 我が富士市としましてはですね。断固あくまで北進しろと、独自のルートを設定しております。つまり海岸線に位置する富士塚から富士山頂まで。全部を歩けという主張。3776メートルを制覇してこそ富士登山だという趣旨でございます。これは大変。疲れそう。

 大渕(おおぶち)街道という私が住んでいる直近の古い道をたどりましてですね。この道は昔の林業の道ですので、富士山の木々を伐採して一直線に降下。オラオラ的に港の貯木場に丸太をザッブーンですよね。そこから船で運んでおったという今は昔の風景があったワケです。そうした富士の修験道ですとか宗教的な来歴ゼロ。カネカネカネの経済的成り立ちの道をたどって富士山を全部丸ごと徒歩で登りきって欲しいというのが我が富士市の意向なのです。いっときますけど古い道ですから狭いですし、土地のクルマばっかりですから飛ばしてますよ。海抜600メートルくらいまではそんな感じです。歩いていると自分が何をやっているのかわからなくなるかもしれませんが気をしっかり持って歩んで頂きたいです。

 海抜1,000メートル付近の林道に突き当たってから、ちょっと西に折れて富士宮市のキャンプ場にイヤイヤながら宿泊してくれってことになっています。出来うる限り「富士市を通れ」ということです。くわしくは「ルート3776」でネット検索してください。以上余談でしたが。

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 現在の「鈴川の富士塚」はコンクリートで固めたキレイなものになっているんですが、昔はもっと漠然とした大きくコンモリとした盛り上がりだったようです。

2018年に行われたシンポジウムにおける資料から。右の肉筆画の描写が参考になるのではと思います。
こちらも同じシンポジウム資料から、大高康正氏の蔵する画像より

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 たびたび出てきますが、書籍「鈴川の歴史」によりますと、「鈴川の富士塚」は昭和40年代からの10年間ほど荒廃していたようです(310ページ)(361ページ)。

後述しますが石灯籠(いしどうろう)と祠(ほこら)が確認できる画像。当時の私としてはお花と猫メインのつもりでした。2013年撮影。

 石積みの上に位置する小さなホコラ。これは小さいながらも浅間神社という位置付けなんだそうです。

 このホコラの行方が分からなかった。

 それと石灯籠(いしどうろう)があるんですが、ふたつあったうち1基が行方不明だった。

 昭和40年代には単なる子どもの遊び場という位置付けになっていたらしいのです。

 富士講の衰退、さらに高度成長期が重なり、加えて核家族化。人の心のありようの変化って申しますか。この当時は味覚にしても今よりもっとケミカルむき出しって時期ですからね。関係薄いかもしれませんけど。

 荒廃した富士塚を再建したのが昭和51年。1976年。コンクリートで造成して、ホコラや石灯籠を新設して今の姿になったと、そういうイキサツなんだそうです。(古い写真を見てもホコラの姿が確認できませんので、もしかしたらホコラが失われたのは私が思っているよりも前の出来事なのかもしれません)

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 富士塚から田子の港まで直線距離で400メートルくらいありますが、ヘドロの処理についての枠組みが決まったのが昭和46年。1971年のことです。

 高度成長を経て自然環境や土地の文化に目が向くようになるまでかなりの年数が必要だったということになるのかと思います。

 田子の港がキレイになっていくのを見て、富士塚を再生する気持ちも芽生えてきたのかもしれないね。っていうお話でした。

TROMS〔22〕ヘドロのゆくえ・スポーツ公園

 すくい上げたヘドロはその後どうなったのか。

 富士市外の方が気にされているとは思えませんが、豆知識的に知っておいても良いかなと思います。

 ヘドロをキレイにするという処置をした後に「富士川の河口」をひろく埋めたてる材料にしました。

第1期の工事を概略したものです。第2期以降は陸路で運搬したようです。

 浄化してありますので、悪臭がするということは無いです。

 スポーツ公園として造成しました。

 サッカーとかソフトボールができる公園です。

 広くフラットな土地です。芝生なんかも植えてある感じの。

 本日のイラストはそんなようすを図化しました。

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 来歴が来歴ですので、モロ手をあげてほめそやすっていうのも違う気はするんですけど、作って良かったなっていう実感は富士の人の多くにあるんじゃないでしょうか。便利です。

 この河川敷のスポーツ公園は名前を「富士川緑地」って言うんですが、クリケット場も存在しておりまして、なんでも国際試合なども行われるみたいです。ハイカラだと思います。

TROMS〔21〕ヘドロ除去のオジちゃんキャット

 私の家族が田子地区から転居して去った後にヘドロ除去の動きが始まります。

 イラストではそうした工事の一場面を図化してみました。

 ニャンコのオジさんが、がんばっています。

 私が大人になって現場の作業に入った経験からすると、重機のオペレーターの人って意外にサラリーマンっぽい人も多かったですけどね。

 女性である場合もありました。

 私は昭和な感じの作業員が好きなので、こんな感じのイラストになってしまいました。

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 ヘドロ除去の作業が始まるとみるみるうちに田子の港がキレイになっていったなという記憶があります。

 除去作業は4期に分かれていて、10年がかりで行われたのだと、今回、調べてみて知りました。

 たぶん私が見て「キレイになった!」と驚いたのは第1期を終えたくらいのことなのではと思います。

 おそらく海面表面に浮かぶヘドロから着手したんだと思いますが、それらを除去すれば、見た目はかなり良くなると思います。

 沈殿している分のほうが大変で厄介な作業だったんだろうなって、ちょっと思えてならないんですけどね。

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 これまでの当ブログの記述においてはヘドロの汚さと深刻さを書き連ねてまいりましたが、キレイにしようと思えばキレイにできるってことも書いておいた方が良いと思います。ただし時間とお金もかかります。

 汚れたなと思ったら早めに処置したほうが良い。そもそも汚れを自然環境にバラまいちゃうと、集めることからして大変なんですね。