「自分史」カテゴリーアーカイブ

TROMS〔28〕サーチライト・ホテル

 今日と明日のお話はちょっとエロいですよ。

 昭和のラブホテルのお話です。

 しかし私が利用したとかの経験談ではなくて、「こういうホテルが昔あった」というお話です。

 私は東名高速道路の富士インターチェンジの近くに住んでいます。

 今の東名高速って新しい路線もありますけど、新旧の東名高速に挟まれるような位置です。新しくできたインターチェンジもそれほど遠くありません。

 交通的には便利な場所ですので、最近は特に物流拠点の大きな倉庫であるとかが目立つようになりました。新しい幅の広い道路なんかも整備されています。トラックが「ンガー」っていって走っています。

 がしかし昭和の頃はね。特に私たち家族がこの地に越してきた頃にはもっと寂しい場所でした。

 人目を避けるという意味ではラブホテルの存在ですよ。

 まだ引っ越してきて間もない頃に気づいたのです。夜になるとサーチライトが空を照らしているのでした。

 スカーっとね。闇夜を切り裂く光線ですよ。

 キレイですし、カッコいいのです。

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 本日のイラストはそんな感じを図にしたものです。

 カエルくんが相変わらず“飲んで”ますけど気にしないでください。

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 しかし私がお昼に歩いて行って「確かこの辺なんだが…」と探索しても、それらしい基地は発見できませんでした。

 「基地」だと思い込んでいたのでした。特撮番組の影響をモロにかぶっている年齢でしたから、秘密結社的なアジトの可能性アリみたいに思っていました。

 10歳くらいになる頃にようやく「あれは大人の男の人と女の人が利用する施設なのだ」と気づいたのでした。

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 しかしよくできておりまして、木々に囲まれて建物は見えない感じで入り口だけがちょっと覗いているというつくりでした。満室の表示か何かがちょっと見えている。そんな感じだったと思います。

 サーチライトだけで存在を誇示している感じですね。

 夜にならないとわからない。目立たない。そういう建物でした。

 このサーチライト・ホテルのすぐそばに、私が通うことになる中学校が建設されたのでした。

 中学に通うくらいの年齢ですから「すぐ近くにエロいホテルが建ってる」ってことはみんな気づいていたと思うんですが、申し上げた通り絶妙に隠れていたので不思議と気にはなりませんでした。

 ゾーニングとか最近では言われますけど、あからさまにしない方が良いかなっていう物件。それを地味にしておくって意外に大事ですね。

 私は実感としてこの点はよく理解できます。

TROMS〔27〕あたらしい高速道路

 東名高速道路の歴史って、これがまた私の年齢とさほど変わらないんですよね。

 1960年代の末。昭和40年台の前半ですので。

 新しかった頃の東名高速道路に遮音壁がなかったことは去年の当ブログにおいてもチラッと書いたんですが、私が住んでいるのは高さにして東名高速よりもちょっと上に位置していて、斜面ですから開けたところまで出ると東名高速を走っている車列が見える状態でした。

 特にやっぱり夜間はキレイ。

 本日のイラストでは、そんなようすを図化しました。

 カエルくんが完全に“飲みの態勢”に入っているのは気にしないでください。「イカ」と「とっくり」を持っていますけどね。

 それと上空にUFOも来ていますけど、こちらも気にしないでください。

 ウソですからね。

 私が子供の頃っていうのがもう大変なUFOブームだったんですけどそれらにつきましてはいずれ何かのカタチで書いたりするかもしれません。

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 引っ越す前に住んでいた、田子(たご)のあたりは「新幹線」の線路のすぐそばでしたけど、新幹線の開通も東名高速よりは早いとはいえ、数年程度です。

 新幹線の遮音壁も未設置だったのは以前に述べた通りです。騒音についての意識が低かったんですね。

 違う言い方をすると、交通と住宅が仕切られておらず、モロに新幹線も車列も観察できた時代。と言えそうです。

 私が生まれた頃の日本ってイキオイがありました。その余波が“公害”ってことになるのかな、と思うんですが。

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 私が地元で過ごした10代における小学校、中学校、高校ですけど、実はどれも創立数年。私は5期生とか6期生って感じだったと思います。どこも新設校でした。

 こうしてみると、交通インフラにしろ、学校にしろ、住んでいる地区が新しかったっていうお話も前回しましたが、いずれもが私が利用する数年前にできているっていう手回しの良さですよね。

 ヘドロで汚れたという例の「田子の浦港」。こちらも正式に開港したのは私が生まれたのと同年の昭和41年です。

 作ってすぐに汚しちゃったんだなってことなんですね。

 何やってんだか。

 ともあれそうした時期に私は成長したのでした。

TROMS〔26〕あたらしい町

 「ア・ニュウ・キャリア・インナ・ニュウタウン」ですよ。マそれは違うんですが、引っ越した先のようすをイラストにしました。

 理路整然とした街並み。それまで住んでいたあたりの景色とは違っていて新鮮でした。

 小学生になって小学校の周囲を歩いたりするようになると、さらにようすが理解できました。

 このあたりは最近に作られた町なのです。計画的に定規で引いたような無機質なつくりを発見したのでした。

 であれば新しくキラキラして見えたかというとそれも違います。

 作られてからちょっと時間が経過した感じでした。

 私が感じたほどには古びていなかったハズなんですが、くたびれた感じがありました。

 まだ新しいからこそ、目につく古さっていうんですかね。微妙な言い方ですけど。

 あんまり親近感も持てなくて地元でありながら好きになれなかったです。

 それが高校を卒業して東京に住むようになってからの特に西新宿の奥の方はノラ猫もウロウロしていてネコの集会が開かれたりしているので、私の気持ちとしてはすごく楽しくて、なじみました。

 40歳を迎えようとする頃にまた地元に戻ってきまして、50を過ぎた今は「まちづくり協議会」の人員としてボランティア活動をしています。やっぱり地元を見る目というのは経験、加齢を経て変わりますけど、しかしさほど大きく認識を改めるということもなかったのですが。

 お祭りの運営なんかを手伝っていて驚いたのは「今の若い人たちにとっては、かつての新興住宅地たるこのあたりもそれなりに歴史のある土地って認識なんだ」っていうことですね。当然ですけどね。50年ほどには歴史が堆積しております。町が出来てからね。しかしこれはえらいことになったと思いました。

 どうかすると祖父祖母の世代から住んでいるケースもありえるのです。

 大変ながらも地域の仕事をしているっていう理由は1ヶだけではないのですけど、若い人たちにとって「ウチらの地元」として思われ親しまれてるんだなって気づいたことも要因のひとつですね。私がいつまで続けられるかわかりませんが、できるだけやりたいです。

TROMS〔25〕さかなトラック

 本日以降はテーマが変わります。

 私たち家族が引っ越した先の地のお話になってまいります。

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 今はかなり便利になりましたけどけっこう富士市でも奥の方でありまして、当時はあんまりお店もありませんでした。

 転居前は港の近くでしたから、リヤカーを引いた行商のおばあちゃんでしたけど、引っ越した先ではトラックに積んだお魚屋さんでした。傾斜地ですから動力が付いていないと歯が立ちません。

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 当時は海洋汚染がよく言われていたので、トラックの後ろの扉のところに「安心! 安全! 新鮮!」みたいなポスターが貼ってありました。

 そんなことを思い出して描いたのが本日のイラストです。