「自分史」カテゴリーアーカイブ

TROMS〔32〕おいしいジャム

 富士美術館に当時のソ連から名画がいくつか来ていたっていうお話はすでにした通りなんですが、美術館といえば最後の方に「おみやげコーナー」がありますよね。

 そこで売っていたジャム。これもソ連製だったのですが、試しにそれを母親が購入したんですけどベラボー(発音としてはベラッボゥ)においしかった。というお話です。

 とても甘くてですね。果実感も濃厚。ぜいたくな感じでした。

 それだけの思い出をイラストにしました。

 また食べたいっていうね。子どもなのか。

 本日はこれでおしまいです。読んでいただきましてありがとうございます。

TROMS〔31〕黒い四角

 富士美術館で見た名画のひとつについて記述しようと思います。

 「黒の正方形」ですね。

 これは美しい作品でした。

 素朴な感想として上がるのは「こんなの誰にでも作れそう」というものでしょうか。

 しかし実際に対面した感想としては非常にスキのないもので、完璧だなって思いました。

 絶妙なバランスっていうのが美術の世界には存在しているんだなって、私が気づいた瞬間だったと思います。

 無造作に置いたら絶対にたどり着けない。「明」と「暗」の領域。配分っていうことなんだと思います。

 子どもの頃にあれに出会っておいて良かったと思う私です。

TROMS〔30〕名画との出会い

 今日からまた新テーマですよ。

 富士宮市で絵画のなんたるかを学んだ。そして新宗教の存在っていう感じです。

 参りましょう。

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 富士宮市のちょっと奥に入っていった土地に昔は美術館がありまして、10代の頃の私はそこでの展示にとても学ばされました。

 イラストはその美術館の外観です。とても立派な大きい建物。駐車場に車を置いて、テクテク歩いて行く感じで、けっこう歩かないと入り口にたどり着けなかった記憶があります。

 この美術館は、建物としては現存しています。

 今はもっぱら宗教的な物品を納める倉庫というか博物館というか。基本的には信者の人向けの施設としての存在なのだということです。

 大石寺という大きなお寺の敷地の中にあった美術館です。

 経営母体としては宗教団体だった、ってことですね。

 当時は大石寺と創価学会の関係が良くて、なぜか大石寺の中に創価学会の資本による建物っていうのが複数作られていたんですよね。正確なところは知りませんが。

 その後に仲が悪くなってしまって大石寺から創価学会は離れるということになったようです。

 それだけじゃなくてかなり険悪なムードもありましたでしょうか。

 ああいう宗教の中の対立ってよく目にしますけど、周りから見るに「大人げないな」って印象はありますね。

 悪意ムキ出しの双方のやりとりを垣間見る機会が私なんかにもごくわずかにありましたが残念ですよね。思うにそんなに距離がある双方ではないと思うんですが。以前まで仲良くしてたのにどうして。っていう驚きもありました。さらにそうした当事者たちがもう片方で宗教的なメッセージを説くって言うのも、なんか違うんじゃないかって思うんですが。オレ達不信心者たちの方がよっぽど仲良くやってるよっていうね。しかしこれは私に信仰心というものがほとんどないせいで、ネジ曲がったココロでそう見えているだけなのかもしれません。

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 1973年に当時の総理大臣だった田中角栄さんが、当時のソ連っていう国に訪問しまして、雪解けのイメージなんかが背景にあったと思います。

 翌年の1974年に池田大作さんがソ連を訪問しまして、コスイギン首相っていう方と会談されたんだそうです。このへんのイキサツは今回初めて私も知りましたが。まぁ池田さんってかなり活発にそういう活動はされていましたね。

 おそらくそこを起点にしたんだと思うんですが、当時のソ連。まぁロシアですけど、著名な美術館のコレクションがかなり多く富士宮市という決して開けているとは言えない土地の美術館に運ばれてきておりました。

 大変にありがたかったです。よく見に行っていました。

 理解できなくても、とにかく大量に優れた作品を見ることの有意義さってあると思います。感謝感激ですよ。ほんとうにラッキーでした。

 印象に残っている絵画を列挙しましょう。

・イワン・クレムスコイ「忘れえぬ人」

・イリヤ・レーピン「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージェ・コサック」

・イリヤ・レーピン「ヴォルガの船曳き」

・スーリコフ「貴族夫人モローゾワ」

・アイヴァゾフスキーの海洋シリーズ、たぶん「第九の怒涛」

・ワシーリー・ペローフ「眠る子どもたち」

 ネットで調べてみて「おそらくこれは見ているだろう」みたいに収集しましたが、やっぱりドラマチックな画面のものほど確信はもてますね。印象に残るって大事です。

 特にイリヤ・レーピンさんの「ヴォルガの船曳き」は今のトシをとった私が見たら泣いてしまうかもしれません。万感胸に迫りますよ。

 確信は無いものの「イワン雷帝と皇子イワン」も見ているんじゃないかって思えて仕方ないですけどアヤフヤです。

 スーリコフさんの「貴族夫人モローゾワ」のハイテンションな表情とキメポーズのキレの良さ、指先に至るまでの意思の表れなどは、もしかしたら無意識に影響を受けているかもしれないと、今回はじめて気付きました。振り返ってみるものですね。

 ロシア正教会がらみの宗教的、歴史的な主題を扱った絵画であるそうです。これは初めて知りました。今回改めて調べてみて。

 この絵画については習作も併せて展示されていたと思います。部分部分のスケッチなんかも来ていたかもしれません。夫人の左手の素描を確か見たんじゃないかって思っているんですが。それも1枚ではなく2枚あったかなって思います。要するに手の表現についての推敲ですね。当然ながら本番の絵で採用された手のカタチががぜん良いなと私も子どもながらに納得しました。

 つまり全部を総合して非常によく練り上げて1枚の名画が生まれたっていう過程を学ぶことができたのでした。

 それらを眺めてけっこう長い準備期間が存在するものなんだなって学んだとともに、納得するまで努力したんだなと感じました。

 今の私が見るとずいぶん演劇的な絵画だったんだなって思いますけど、子供の頃の私は夫人の圧倒的な存在感に、絵を見ているというよりは、意思と気性をじかに感じたっていうそんな心境だったと思います。パワーのある絵画ですね。サイズもバカでかいですからね。

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 この当時っていうかつまり1970年代の「富士美術館」と申しますか「大石寺」周辺は、人がたくさん来ていましたね。私の家族が美術展を見に行くために敷地の外周をグルっと自動車で半周するんですが人が列になって何か歩いているというか、よくわかりませんでしたけど、それがいつ行ってもその沿道のところを歩いているといったようすでした。みんな割とちゃんとした服装をしていたように思います。なんだったんでしょうね。

 マしかし、もしかしたら当時を知らない世代の方がここを読むかもしれないので記しておきます。にぎわっていましたよと。

TROMS〔29〕UFOホテル

 「UFOホテル」ですよ。こちらも“ラブホテル”と称される例の施設です。

 上のイラストでは学校の教室から大きくそのホテルが見えるような感じになっていますが、これは誇張でありまして。実際はもっと小さめに見えましたし、茂った竹林に阻まれてお昼であれば意識することもできないという位置関係でした。距離的には200メートルちょっと離れていたと思います。

 しかしそれが夜になると、UFO建物の上段の周囲の丸い窓が赤く光って右旋回だったか左旋回だったか忘れましたけどチカチカ流れていくんですね。カッコいい。それは間違いない。しかし周囲が暗い中での「光」は目立ちます。中学校の教室から見てもその存在があからさまになってくるんですね。ちょっと問題ですよ。

 中学生は暗くなる前に帰宅しますから実のところ校舎から「光るUFOホテル」を見た経験というのは特別に日が落ちるのが早い時期の数日しかなかったです。私の体験としては。

 私はあんまり深く考えるタチじゃないので中学の近隣にラブホテルがあるという点について深刻には捉えていませんでしたけど、イラストのように赤い光を背中に受けるようにして帰り支度をしている時には「うちの中学もたいがいだな」と思いました。「開店中! 回転中!」ってウルさい感じですからね。マすぐに忘れるんですが。

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 地図にして説明した方が良いと判断しました。がんばりましたよ。かなり手間がかかりました。

 カエルくんが、またもや“飲んで”いますけど気にしないでください。

 地図に戻しますけど、実際の距離からすると移転する前の「サーチライト・ホテル」の方がむしろ「UFOホテル」よりも中学校に近かったのです。チョビッとね。

 実は「サーチライト・ホテル」と「UFOホテル」の経営母体は同じです。

 「サーチライト・ホテル」が立ち退きになったので「UFOホテル」として移転したのです。それと便宜上「サーチライト・ホテル」とか「UFOホテル」って当ブログにおいては表記していますけど、実際の名前は違います。「ホテル・リオ」っていいました。移転前も移転後もどちらも同じ名前です。

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 富士市と富士宮市をつなぐ自動車専用道「西富士道路」の新設工事の際に「サーチライト・ホテル」が立ち退きになったんですね。「ジャマだ!」って言われた感じ。

 ですからその点において「サーチライト・ホテル」は被害者なんですよね。

 ところが移転先が問題。しかも「サーチライト・ホテル」が木々に隠れる存在であって、絶妙に昼間は目立たなかったというのは前回に申し上げた通りですけど。

 それが移転した場合の計画としてはモロに見えていて、さらに外観がUFOだと。知れ渡っちゃったんですね。

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 主に子供のいる世帯の父母の方たちによる反対運動が始まりました。

 反対しながらも移転のイキサツから考えるに「ちょっとムリっぽい」っていうね。道路計画の被害者ですからね。そんな雰囲気を感じながらの反対運動だったと思います。

 実際やっぱり営業を止めることはできずに運動としては立ち消えになりました。

 しかしこういうのってネガティブに捉える人もいるかもしれません。「やるだけムダじゃないか」ってね。ですけど、「大人は反対してくれた」っていうのは良いことだと思います。「やるだけやった」んだと。子供に対する影響は小さくはないと思います。私自身の当時の実感としては。

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 ラブホテルっていう存在それ自体は無いと困る人が多いですし、その存在意義は完全に認める立場の私ですが、やっぱり設置における方法、位置ですよね。あんまり「どうだー!」って誇示するものでもないなって思います。

 今ではこの「UFOホテル」は存在していません。撤退した理由については私は知らないので何とも言えません。しかし自動車で利用するにしても便利すぎるというか、もうちょっと隠れていた方が入りやすそうかな、っていう気がしました。

 だだっ広い印象の四つ角の角っコで広めの幹線に接続しているんで、もうちょっと雰囲気としてはクネクネした道の先とか山の奥にあったりね。そういうんじゃないと道中の車内における雰囲気形成にも影響ありそうです。私は利用した経験がありませんので想像です。

 しかしあの外観はね。UFO型のね。惜しかったです。あれがラブホテルじゃなきゃね。良かったのにね。夢のある外観でした。

 仮にUFOホテルからピンク色の怪光線が発射されて自動車を捉えて巻き込んでいくように入室するようになっていれば良かったのかもしれません。

 「うわ~! 引き込まれる~~~! たーすけて~~。 こうなった以上はココロならずも、ココロならずも。利用せずにはいられない~~ッ」っていう泣き笑いであるとか……。

 でも今の技術じゃムリですね。