「自分史」カテゴリーアーカイブ

TROMS〔36〕建物スケッチ

 今日も文章は少なめでまいりましょう。

 高校生の時に描いたスケッチが出てきました。

制限時間の中で描き上げられず。途中の状態のスケッチです。

 富士宮市にある大石寺の敷地の中に存在していた正本堂(しょうほんどう)の入り口側になるのかなと思います。

 非常に大きな建物です。

 正本堂はお寺の敷地の中に入っていかないと、たどり着けないので、信者以外の人、つまり私はこの時に初めて見ました。全周囲の角度から見ても隙のない非常に立派な建築なんですが、この時の私はですね。ただただ、入り口のようすの立派さ。それのみに感動しました。

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 私が高校生だった頃の美術部の先生をしていた人が創価学会の人だったみたいなんですよね。

 それで正本堂のスケッチという活動も実現したみたいです。

スケッチブックの裏表紙にシールが貼ってありました。入場許可的なものかなと思います。
画像ソフトでかなり強引に調整。昭和57年11月14日。ソ連のブレジネフさんが亡くなった1週間後です。

 富士美術館に展示を見た時に、遠くを歩いているその先生の姿を見たことがあります。

 別に外部の人でも当時はお金を払いさえすれば見に行けた開けた美術館でしたが、まぁ実態としてはやっぱり信者の人の割合も多いっていうのが実態じゃないかって思うんですが。わかりませんけどね。

 ンでね。

 上掲したスケッチに戻すんですが。完成していません。2時間やそこらのスケッチでは手にあまる精密な建築なんですね。

 この当時の私はまだペース配分というものが全くできなかったのだということがよくわかります。

 「建物はずっと残るし、いつかまたスケッチして完成させたい」という気持ちだったかもしれません。

 ところがこの建物が今はもう無いんですね。もったいないです。

 大石寺と創価学会の関係が悪化して離別することになったのを機会に取り壊してしまったそうです。

 確かに維持するにしてもお金がかかりそうな建物ですけど、しかしまぁ素朴な感想として惜しいなって思います。

 私が高校生の頃に描いた書きかけのスケッチも完成することは無くなってしまったのでした。

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 スケッチブックの他のページに描かれていたスケッチも公開しようと思います。

 私が高校1年生の頃に描いた絵です。

 これは美術部で由比漁港に行った時のものですね。

 由比というのは富士市の西側でございまして、大ざっぱに言うと県庁所在地の静岡市の賑やかなところと富士市の中間っていう感じですかね。

 サクラエビ漁で有名な港です。

 まぁなんと申しますか。あんまり特徴のない絵ですね。

 ブログ掲載にあたり、見やすいように描線を強調したりしてあるので、実物はもっと取り止めがない感じです。

 この時点の力量から曲がりなりにも絵画方面のプロを目指したかと思うと無謀だったなっていう感想しかありません。その反面、40年も経過すると今の自分とは別人っていう気持ちもすごくあって、なんかもう他人の描いた絵っていう感覚もあります。

 限られた滞在時間の中で4枚を描けているっていう部分だけを見れば集中力と根気は少しはあったのかな、って思います。

 以上、こんな感じでした。真面目ではあったみたいですね。

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 それと一緒に富士美術館での展示を告げるポスターも出てきましたので掲載いたしましょう。押入れの大捜索の結果です。

 やっぱり「第九の怒涛」は見ていたみたいですね。ポスターが残っているということは。しかし名画ですね。スゴい絵です。やっぱりね。またこのフォント(書体)デザインが良いですね。ツメツメっていう感じですね。(印刷業界用語)

 それと「忘れえぬ人」にしろ「本邦初公開」が多かったんですね。この時が最初か………。今になって感心してみたりしてね。しかし本当に見ておいて良かったと思います。多少なりとも私の中に残っていますからね。富士美術館の展示については感謝しかないです。

TROMS〔35〕サクラ咲く墓苑

 きのうの内容と関連します。

 創価学会のお墓。大きな墓苑ですが、行ってまいりました。自転車で。

 標高800メートルほどの高地です。キツかったです。

 傾斜としてはユルいんですが、行けども行けども着かないな、という道のりでした。

 日付としては先月です。4月4日。

 雨が降った次の日でして、富士山に積雪がしっとりと、非常にキレイに積もったので出発を決意したのでした。

 桜の開花には1週間から10日ほど早かったです。日本の東北地方における開花時期と同程度だと思って良さそうです。空の青さは理想的でした。しかし雲がありました。

 富士山の積雪についてはこの日が結局、今季における最後のチャンスだったかなと思います。白くコンモリとっていうのはなかなか難しいですね。1年に何日もないです。

 入り口のあたりの写真です。

 正式な名称は「富士桜自然墓地公園」なんですね。

 知りませんでしたし、ここには初めて来ました。

 私が子供の頃にニュースで話題になっていた墓苑がココなんだと思うと感激もひとしおです。来てみると単にキレイな場所でした。

 この入り口あたりの桜は半分くらい咲き始めていましたが、けっこう奥行きがある敷地というか、墓地エリアはまだまだこの先。桜の咲き方に影響があるくらいの高低差があるようです。広いですね。

 橋がかかっていました。

 ため池の上に渡してあるという位置関係です。富士山の南側斜面、この標高に存在するため池って、私の知る限り珍しいと思います。

 小さな島の上でトリが羽を休めていてとても平和な雰囲気。

 静かな場所です。

 橋の名前は「池田大橋」でした。

 ご覧の通りでありまして、ホントにキレイな場所です。桜のつぼみが色づいている状態。

 この日は定休日で本来なら中に入れない日でした。

 警備の方がおっしゃるにはお墓まいりに来た人は別。その他に私のように桜を見に来たっていう人の場合、1周して帰ってくる程度の短時間ならいいよ。ということでした。

 長居はできませんけど、来場者が少ないので静かにしておごそかな雰囲気を感じるなら悪くないといったところでしょうか。

 梅が咲いていました。とにかくドコを見てもキレイといった印象。

 終点(行き止まり)の近くです。富士山が巨大に見えます。大沢崩れ(おおさわくずれ)のようすがこれほどまでにキレイに見えるとは。感激しました。

 おそらく自転車で登っていける地点としては最高点ではないでしょうか。高度的に申しまして。

 ちなみにですね。写真に写っている道。この道の名前は「広宣道路」です。

 墓苑が営業している日であれば、付随する休憩所なども開いていると思われるんですが、実は礼拝所のそばに「広宣流布の碑」というのも存在しているんですね。非常に創価学会っぽいですよ。

 せっかく来たので、そちらもゼヒ目撃しておきたかったんですが、何しろ定休日ですので自分勝手な行動は慎みました。

 とにかく富士山の見え方がスゴかったです。感動しますよ。近くに寄るほど富士山の全容は視野におさまらなくなります。それは当然ですけど、しかし近づけば近づいただけの迫力。細部の鮮明さはありますね。「すぐそこで崩れている」という気がしてきます。もちろん実際ははるか遠くなんですけど、空気もきれいでしたのでそんな気がしました。

 写真の色合い的には多少の修正はしていますけど、この空の青さ。素晴らしかったです。

 このあとトイレをお借りして着替えを済ませました。

 汗でビショビショでした。ちょっと寒かったです。

 帰りは、ほぼ全部が下り坂ですので、かなり厚着して体温低下を防ぎます。

 富士宮市と富士市を結ぶ道は狭い経路が多く、そのひとつを利用したんですが、お勤めの方の帰宅ラッシュの時間は危険度が上昇しますので、まだ日が高いうちに帰路につかないと自転車の私はヤバいです。

 上のお写真はもうあらかた下ってきた後のものです。富士宮市の観光地である「白糸の滝」の近隣。橋がかかっています。

 水はすっかり引いていますが、上流というか源流は富士山の大沢崩れです。

 つまりこの川「潤井川(うるいがわ)」は、富士山のてっぺんとつながっています。

 大雨の時には濁流がザンブザンブっていう河川です。もしかしたらこの文章を読んでいる方もニュースなんかで「大雨で富士宮の濁流がスゴい! 岩がゴロゴロ!」みたいな報せに接する機会があるかもしれません。私もいうほど詳しくありませんので断言はできませんけど、この川のもっと上流である場合が多いかと思います。監視カメラの映像ですよね。

 写真にもちょっと大きめの石が写っていますね。

 しかし普段はご覧の通りのカラカラの川です。

 この川は田子の浦港まで続いています。実は大沢崩れからの土砂で田子の港の入り口がふさがってしまって、川の水が排出できなくなり、農業や人々の生活に大きな被害が生じた。という歴史も度々あったのだと、今回の連載というか調査の過程で知りました。上の写真のような治水というか砂防というかその辺の配慮というのもかなり重要な対策なんですね。きっと。

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 話が前後するんですが、行きの行程で「若獅子神社(わかじし・じんじゃ)」という場所に寄ってきました。

 ここは「富士桜自然墓地公園」に行く際の通り道にあたります。

 いわゆる少年戦車兵を祀る神社です。

 この場所に戦時中は戦車兵を養成する学校があったんですね。演習場なんかとともに。かなり広大な敷地であったようです。

 近年になってからサイパンより移されてきたという当時の戦車です。

 かなり朽ちています。

 近くに寄る気にはなれず、礼だけしてこの場を後にしました。写真もこの1枚だけです。

TROMS〔34〕創価学会と日本刀とブルドーザー

 私がまだ小学生の頃に知った忘れられない事件ですね。

 記述してまいりましょう。

 しかし今になって調べてみて「そうだったのか……」と、知ったことも多いです。

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 「富士宮でヤクザが人ンチに突っ込んだって!」

 「ゲゲーッッッ。富士宮おっかニャー(おそろしいの意)!」って話ですよ。

 ホントなのか! そんなことが果たして?! って戦慄しますよね。子どもじゃなくてもね。

 つまりこれはかつて富士宮市を本拠としていた「後藤組」のしわざです。

 余談になりますが、全国的に知られる「富士宮の村八分事件」。それと「大石寺」。そしてこの「後藤組」。位置的にはあんまり離れてないんですよね。

 業が深いなって思います。あのあたり。しかし風景としては別に普通っていうか普通以上にかなり良い土地ですけどね。特に田園的な風景は本当に良いなって思います。

 戻します。後藤組と創価学会の絡みですね。

 この当時1970年代にモメていた事件と申しますと、創価学会が墓苑として取得した土地。それにまつわる不正の疑惑ですね。

 富士山の高度800メートルくらいを頂点とする広大な墓地があるのです。

 これが創価学会的にはぜひ成功させたい事業だったらしいのです。

 場所的には素晴らしいですからね。

 この件につきましては連日テレビでも報道されておりました。

 私はまだ子供でしたので内容は理解できませんでした。

 がしかし悪いことが行われているんだな、どうやらっていう印象だけです。

 富士宮の市議会において百条委員会が設置されそうになっていたみたいです。

 これについて創価学会的には絶対に回避したかったみたいです。

 そんなさなかのブルドーザーで民家に突っ込むという事件ですね。

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 あらましとしてはヤクザのおひとりがブルドーザーで民家の塀を破壊。

 玄関から乗り込んでいって日本刀で男性に切りつけた。

 というものです。

 本日のイラストはそんな感じを図化しました。

 富士宮で起きた事件ですので、片手に「富士宮やきそば」も持たせてあります。

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 ではナゼこんなことをしたのか。

 事件がショッキングなのとヤクザ絡みって構図だけで、つい印象だけで知ったような気分におちいりそうですけどそれもマズいですよ。

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 切られた男性は、土地取得不正について追求していたみたいですね。市民としての立場で。

 それでビラを印刷して各家庭に投函する活動をしていたのだが、その内容に怒り狂ったヤクザの男性。

 この人が日本刀を片手に突っ込んだと。

 逮捕された後に語った内容は「親分に恥をかかせたことが許せない」という内容だったそうです。

 つまり本人の自覚としてはあくまで組としてのプライドっていう部分が根拠だったみたいなんですよね。これは知りませんでした。

 考えてみれば創価学会としてビラの配布をやめさせろとか、ついては日本刀を持って突っ込めとか、そんな指示を出すワケがないですよね。

 百条委員会への証人としての出席。これは絶対に避けたかったにしろ、まぁビラくらいは止められるものでもないですし、ましてや日本刀を持って突っ込めっていうのはさすがにあり得ません。

 犯人の人は刑務所に服役することになったそうです。

 被害者の人もエラい災難ですし、犯人の人もその後あんまり幸せに暮らすこともなかったみたいです。無常だなと感じました。

 後藤組の組長だった人は有名な人ですが、彼の理屈としては「創価学会に共鳴し支援する活動としての突入事件である」という認識みたいです。しかし犯人の供述の内容からすると無理があると私は思いました。

 がしかしその他の活動として創価学会のために働いていたことは確かであるようです。

 創価学会と後藤組の仲立ちをしていた弁護士の人っていう存在があって、この人もちょっとやりすぎるというか独自の野心に満ちた人であったみたいです。意図しない化学反応みたいなものもあったのかなという感想を持ちました。

 まとめますと当時に非常にパワーのあった大きな団体。それにまつわる直接的ではないにしろ非合法な活動。それ自体はあったようだ。ンガしかし、ブルドーザーで突っ込んだっていうのは、個人の突発的な行動だったのであろうと、そんな構図だったみたいです。肯定はできないにしろ、まぁあの当時、あってもおかしくないかなっていう程度だと思います。

 今でもヤクザ組織にまつわる自動車による突っ込み事件なんていうのは時たま目にしますが、ブルドーザーで外壁破壊っていうのはちょっと無いのではないでしょうか。今だと。さらに日本刀。しかも相手は一般市民。昭和の時代でもこの事件が最後あたりに位置するんじゃないでしょうか。

 マ、以上のような感じでありまして。私が全てを知ったとは思いませんが、少なくとも子供の頃に知ったどエラい事件。その関係について切り分けて理解できたのは良かったと思います。

TROMS〔33〕創価学会のジャケット・チーム

 ジャケットだったか背広だったかわかりませんけどキチンとした身なりの2人でひと組の活動。

 全国的なものだったのか知りませんけど、創価学会の若い人たち。

 そうした姿を当時は見かけました。

 「お金がありそうな家にしか行かない」みたいなことを地元では言われていましたが、これはわかりません。

 かつての折伏(しゃくぶく)大行進で反感を買ったという自覚があったのか知りませんが見た目はスマートな感じでやっていたと思います。

 この人たちは当時は大石寺の中の警備なんかも担当していたのだと思います。

 大石寺ってとてもとても大きな敷地を持つお寺なんですが、雰囲気が独特なんですよね。

 ピーンと張り詰めたような空気を感じます。

 「お寺」と聞いて素朴にイメージするような「和」の枯れた風情的なものは無いというか。

 創価学会と決別した今でもその緊張感は残っているように感じます。この感覚は私だけなんでしょうか。

 山門がパカッと割れて地下がせり上がってきて戦車や武装した僧兵の集団が現れてきても私には意外じゃありません。

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 私は高校3年生の頃に自動車の教習所に行って免許を取る勉強をしました。

 そこに若いお坊さんたちも来ていました。

 教習所の社長さんがなんでも創価学会の信者であるのだと聞いていました。

 それでお坊さんには優先的に便宜を図って免許の学習をさせているとか何とか。

 その時の印象なんですけど、あんまり人としての質は高くなかったように思います。その若いお坊さんとされる人たちの印象ですが。

 この人たちに比べたら町の普通の人たちの方が宗教心的なものをわきまえてるように感じる。そんな感想を持ちました。

 「長じて、こいつらに仏教の教えを垂れてもらったりお経を読んでもらう機会がないとも言えないとしたらなんかヤダな」っていう気持ちですよね。皮膚感覚としてね。

 なんとも言えずギラギラした存在感があっておよそ煩悩から断ち切られた所作を身につけているとは思えませんでしたしその過程にある。あるいは向き合っているっていう感じも皆無でした。

 ギラギラしてゲラゲラ笑っているっていう。品の無い奴らだなって思っていました。

 私と同年代の人たちでしたけど今はどうされてるんでしょう。そのままホトケの道を歩まれているんでしょうか。