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TROMS〔16〕海上デモ

 本日のイラストは、田子の港においての海上デモのようすを図化しました。

 海面がヘドロで汚れる。そうなると漁業に“さしさわり”が出てまいります。

 近隣の漁師の人たちも船に乗り込んで応援に来てくれたんだとか。当時ね。

 この活動につきましては、私はこの目で見たワケじゃないです。あくまで私らしくイラストにまとめただけです。

 静岡県東部の漁民は大部分がネコとヘビで構成されているとかの事実は一切ございません。

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 我が富士市のヘドロ汚染に関する歴史を読むと、原因企業と漁民たちのやりとりのようすがわかってきます。

 誰の目で見ても漁業に悪影響があるというのはわかりますから、企業側から補償金が出ていたようです。これは個々の漁業者に対するものだったようです。

 しかしそれだけでは現状維持にしかならない。漁民の気持ちとしては海が元の状態に戻ってほしいのだと。

 田子の港には漁協があるんですけど、その成り立ちですね。きっかけ。これが私は知って驚いたんですが、ヘドロを議題とする際の企業との交渉。その交渉に個人として臨むのではなく団体でコトにあたろうと。

 つまり漁業の運営それ自体というのもあるにはあったかもしれませんが、「ヘドロを何とかさせよう! ラチンあかンニャーじゃんこンままじゃアさぁ。ズラ?」的な団結の意思があったらしいんですよね。想像ですけどね。

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 しかしそんな流れについては後世の人間である私なんかにしても思い当たるフシがあります。

 昭和の特撮映像なんかがお好きな方には納得していただけるかもしれません。

 「スペクトルマン」っていう連続特撮テレビ番組を例にとりましょう。

 漁協の建物が大フューチャーされています。

 富士市の人間が見ると「田子の漁協の建物ンなんだかたくさん映ってンじゃん」ってなります。それ以外にも港の漁船を係留しているところの角っコとかも出てきます。

明るくなっているあたりが漁協の建物、ならびに係留してある漁船です

 漁協が撮影をバックアップした形跡がうかがえるんですよね。つまりヘドロの公害を取り上げてもらえるのなら協力しようという意図があったのでは…。と考えています。私は。

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 「スペクトルマン」の他にも、ゴジラさんの映画「ゴジラ対へドラ」という映画においても、漁協あるいは土地の人たちの協力を思わせる部分があるんですが、そちらについては後日まとめてお話ししようと思います。

TROMS〔15〕富士市・田子の浦港周辺の地図

 地図のイラストを描きました。市内の南部っていうか、田子の浦の港を中心とした工業地区の一角です。

 この地図をもっと早く出すべきだったかもしれません。

 おそらく静岡県内の人でも中部、西部の人だと富士市の地理なんて知らないと思います。参考にしてください。

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 説明に参りましょう。

 映画「ゴジラ対へドラ」に出てくる地図に見覚えがあれば、なんか見覚えがあるぞってなるかもしれませんが、下部の中央が「田子の浦港」です。

 左にカエルくんが立っていますけど、そのあたりが私が生まれた場所。「柳島(やなぎしま)」です。

 カエルくんのつま先あたりを横切っているのは国道1号線です。

 カエルの背後すぐの建物が新幹線の駅です。「新富士駅」。

 ビックリするんですけど富士市は割と無計画な土地でして、なんと新幹線の駅と在来線の駅が離れておりまして連携していないんですね。これがまた中途半端に近くて遠いという2~3キロあるのかな。非常に不親切な設計です。この地図にはその「富士駅」は描いてないです。もっと左側っていうか方角ですと西側に位置しています。

 カエルくんの反対側というか右側。オレンジに塗ってある工場がゴチャゴチャっとある感じのエリア。これが度々社名を連呼しておりますが「大昭和製紙」の「鈴川工場」です。今はもう吸収されちゃって社名は残っていません。

 大昭和製紙って市内にいくつも工場がありまして、そのそれぞれが今も製紙工場として活動しています。この地図にも描かれておりますが、無関係の製紙工場であるとか自動車のオートマチックなトランスミッションを作っている工場も地図には入っています。目に付く大きな工場は図化したという感じです。ですので雑多。あえて詳述はしません。

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 注目していただきたいのは「大昭和製紙の鈴川工場」と「田子の浦港」の位置関係です。

 近いです。

 映画「ゴジラ対へドラ」の冒頭でチラッと映る廃液の根源たる工場。それがこの鈴川に位置する大昭和なんですね。他の製紙工場にも責任はあるんですが、3割程度は大昭和由来だったみたいで、やっぱりかなり責任があるというか、まぁ富士市民の認識に照らしてもヘドロ公害の象徴みたいな位置にはあると思います。

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 ついでに「大昭和製紙の鈴川工場」と「交通機関」についても注目してもらえればと思います。

 港が近いのは原料になるチップですね。海外から船で運んで参ります。「大昭和102計画」っていうのがございまして、それまで国内原料を使っていたのだが海外からの安定供給をアテにしようという転換。これが大昭和の2代目社長である齊藤了英(りょうえい)氏が元気な40代から50代だった頃の事業の根幹でありまして。チップ専用船という貨物船の建造ね。これを自社でですね。しかしこの調子で語るとまた長くなるので「船の話」と「102計画」の詳細については打ち切ります。

 鉄道輸送の話に移りましょう。東海道線。当時は国鉄。「国鉄」って書くだけで非常に懐かしいですね。それと市内に引き込んでいく感じのこちらは私鉄、岳南電車ですね。

 これらも近い。岳南電車の方はもうほとんど鈴川の工場ギリギリから線路が出ている感じですが決して誇張ではありません。わりとこんな感じです。

 それと自動車道としての幹線。イラスト上ではちょっと離れた感じになってますけどこちらも決して遠くはないです。

 要するに東京にも名古屋にも紙を送れるという地理的な利点を最大限活用できるポイントに工場があった。原料の受け入れについても完璧であったと、そう納得していただけると幸いです。

 紙需要における先見の明が的中したこともあって、紙をすいて、すいて、すきまくっていたら海が汚れて空も汚れたっていうのが簡単なコトの次第なのかなと、改めて調べてみて思いました。

TROMS〔14〕ソフトボール・チームのオジさんたち

 固いお話が続いたかもしれません。

 野球をしているタヌキのオジさんたちのイラストを描きました。

 昔のことを思い出す上で、色々と「そういえば!」なんていう本題とはズレたことも浮かんでくるんですが、一応それほどズレてもいないのかっていう話題です。

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 ヘドロの原因企業として主要な一角を占める旧・大昭和製紙ですが、功罪どちらもある存在です。富士市にとっては。

 ここは野球のチームを持っていまして、強かったんですよね。実業団野球です。

 地区対抗の優勝パレードを地元である吉原の繁華街で挙行したりしていたみたいです。私は目撃しておりませんが伝説的な出来事です。

 タレントの伊集院光さんが野球が好きで、実業団野球も見ていたということです。大昭和野球チームの応援歌っていうのがあったんですが、それも歌えるとか、そんなことをご自身のラジオ番組でおっしゃっていたように思います。

 そんなに昔の話じゃないんですよね。

 以前に当ブログで連載しましたマンガにおいて、東京の千駄ヶ谷に住んでいた時分ですね。当時ほとんど部屋のカギを施錠していなかったみたいな記述をしました。その頃のお話です。

 休日のお昼だったと思いますが、お部屋でくつろいでいた時にトビラがガラッと開きまして、ビックリして見ると友達のゴッピーが片手にメガホンを持って入ってきて、やおら大昭和の応援歌を歌い出すといった事件がありました。

 ゴッピーって私の小学生からのお友達なんですが、大昭和製紙に勤務していて実業団野球の応援のために上京したとかで試合が終わった足でいきなり私の部屋を訪ねたとかでした。何の予告も無く。

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 そんなゴッピーなんですけど、その後に富士に帰省した折の私に対して「最近は会社がダメで支給されてた作業着も今だと自腹さや」なんて語ってくれたのが20代も中盤か後半でしたかね。「さや」っていう語尾は方言でして、「なんですよ」っていう意味です。

 大昭和製紙といえば、クドいようですが、長く富士市の屋台骨でして。ゴッピーなどは高校卒業、就職の運びの際に先生に対して「大昭和にします」って申し出ると「え! ホント?! 大昭和でイイの?」という割とハゲしめの反応をされたということです。「それなら簡単よー!」みたいな文脈だったそうです。

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 ゴッピーは工業高校に通っていたんですが、その学校自体が大昭和製紙の創立した学校が前身なのです。だからもう就職はカンタンみたいな。

 ちなみにゴッピーが就職した頃の大昭和製紙というのはまだ調子としては良かった頃です。

 高校の他に幼稚園なんかも大昭和製紙は作っていたと思います。

 富士市における「昭和」って名前が付いている古くからある施設は大昭和の関与を念頭に置いて考えたほうが良い。そんな富士市なんですね。

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 実のところ私くらいの年代で地元の人ですと大昭和の負の部分も含めてペラペラと話す人は少ないかもしれません。

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 今日も結局また長くなりましたけど野球に戻して終わりにしたいと思います。

 富士市内でも大昭和の野球チームの活躍、その影響があったのかどうなのかわかりませんが、おじちゃんたちのソフトボールチームが結成されてリーグ戦とかやっていたよ、みたいな話、それがイラスト作成における動機でした。町内会別でやっていたような記憶です。

TROMS〔13〕並ぶ瓦の先に立つ科学の光

 本日のイラストは「ヘドロ汚染の主たる原因となった工場群を近隣の小さな住宅地から眺めた」という感じのイラストです。

 大規模雇用が前提となる企業活動としての製紙業なんですけど、富士市、あるいは近隣の市から通っていた人もいると思います。勤め先としての会社の存在ですよね。これは戦後の復興と高度成長。庶民の生活において大きかった。そこは疑う余地もないでしょう。

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 昔の映画を見ると「ウチのセガレがサラリーマンになってハァ」みたいな感嘆が大部分を占める言葉を発するご老人のそれなんかを目にします。

 簡単に言うと人生における見通しが立つというね。ありがたいことであったと思います。

 ローンですよね。信用販売。昔は月賦(げっぷ)って言いましたけど。月給を前提にするものです。とにかく職場に通って働いていればお金になるっていう感覚でしょうかね。

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 映画「ゴジラ対へドラ」の公開が1971年なんだそうです。ヘドロの汚染を背景にした映画ですから、汚れがピークだった頃ですよね。

 私がヘドロを実際に目撃したのもおそらく1971年。

 飛びますけど小説家の三島由紀夫さんが切腹して亡くなったのは前年の1970年です。

 そこから考えてみようと思います。

 三島さんが市ヶ谷の自衛隊の建物の上から演説しましてね。「決起するものはおらんのか」と訴えた。しかし「我れも立つ」っていう人は出なかったというイキサツなんですが、後になって言われたこととしては「実働部隊は出払っていたので仕方ない」でありますとか、「そういうことなら俺も同意した」みたいなアンケートの結果が出たとか言われています。

 その真意を踏みにじる気持ちは私にはないですけどどうでしょう。

 その当時って同時にマイカーブーム。マイホームブームですからね。普通の主婦のオバちゃんがサニーとカローラという車種の区別がついた時代。個人の幸せ、家庭の幸せ、主に物質的な当時の「三種の神器」。そうしたものに集中する意識が強くブ厚くあったんではないかと思います。

 農家の次男、三男だった人も多かったみたいに言われる自衛隊の当時の構成なんかも考えるに私はねぇ。対米自立どころじゃなかったんじゃないかって思います。

 もしも今、三島由紀夫さんが同じことを広く国民に対して問うたらどうなるのかなって思います。