「外出 自転車」カテゴリーアーカイブ

富士山は静岡県側からの眺め以外は無価値〔白鳥山編〕

 きのう予告しました通り「白鳥山(しらとりやま)」に行ってきましたよ、という記述です。

 今年から当ブログでは「富士山の南側(つまり静岡県側)」を紹介していこうと思うのです。

 今回は第1回です。次回は未定です。

 きっかけとしましては、私がたまに監視しているラジオ番組「山カフェ」というものがあります。NHKラジオ第1、土曜日朝の放送です。

 その番組内においてしきりと「山梨の粗末な駄山から見た富士山が素晴らしい」などとする誤った見解が繰り返されておりまして、そのたびに頭がおかしくなりそうなほどに憤慨しておる私です。

 しかし「山」に関するコンテンツというのは、なにも「山カフェ」だけではありません。きっと他にもたくさんあるでしょう。

 もしかしたらそこでも「山梨の粗末な駄山から見た富士山が素晴らしい」とする根拠ゼロの誤った情報が流布されている可能性があると推察するのであります。

 コンテンツ運営元の口座や帳簿を調査すれば、そのすべてにおいて山梨の怪しげなNPO法人からの極めて不明朗な入金が明らかになるハズです。そうに違いありません。

 しかしそうであるとするならば「静岡県民は何をすべきか」という問題にブチあたります。

 「静岡県側から見た正しく美しい富士山の姿」。それを県民ひとりひとりが発信していくしかありません。

 山梨県民の悪だくみを打ち砕く静岡県民運動なのです。

 私も県民のひとりとして参画していく所存です。

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 そんなワケで「白鳥山」なんですが、実はこれがけっこうギリギリなんですね。

 山梨と静岡の境界に位置しています。

 冒頭のお写真を撮影した地点は「白鳥山森林公園」の中です。

 地図で見ると静岡県側なんですけど、下のお写真をご覧ください。

 「山梨百名山」って書いてあります。

 つまりこの公園というか山頂は山梨と静岡の両方にまたがっている。にもかかわらず、もっぱら山梨県民がデカいツラをしているのであります。

 「南部町」という表記も見えますね。

 「南部町」というのは山梨の最南端の町です。と申しましても、おそらく町民のうち少なくない人たちが静岡県は富士宮の会社にお勤めなのだろうと思います。

 町内に高校が存在しないので富士宮の高校へ通う子もいるって聞きます。身延線という鉄道が通じているので登下校はそちらを利用するんじゃないかと思います。

 つまり静岡県民にとりましては「敵か味方かわからない南部町」ってことになります。

 他のお写真も掲載しましょう。

 やはり「山梨県」って書いてあります。ゆるしがたい。

 標高568メートルだということがわかります。手作りな感じですごく良いです。

 きのうも書いたんですけど、私は思いつきで気軽にここへ行ってきたんですが、登っても登ってもたどり着かないので驚きました。ちょっとした低山だったのです。丘の部類だろうと思い込んでいたのですけど間違いでした。どおりで全然たどりつかないはずです。

 「当地は“恋人の聖地”である!」との宣言が故・桂由美さんの署名入りでなされておりました。

 私がここを訪れた際には無人でした。

 たぶん上のお写真のあたりが“恋人的な要素”の全貌です。

 左の「鐘」を「せっかく来たんだから」と思って鳴らしてみたところ、想像以上に大きな「カーン!」という音が出ましてドキッとしました。

 ちょっとお弁当を広げられたりするスペースもありました。新しい木で作ってあります。

 おそらく下草なんかも刈ってあるのだと思います。けっこうキレイにしてある印象です。

 南部町民、あなどりがたしとの感想を持ちましたが、地図上は静岡県側であると繰り返しておこうと思います。

 歴史的には武田信玄さんとかの時代にさかのぼりまして、ノロシをあげて通信したりとかの機能を持つ場所であったということです。なるほど。

 県境などは多くの場合、山の頂点を境にしてパッカリ分割しちゃったりするので、こうした「歴史的には山梨県側。県域としては静岡県側」みたいな微妙な場所も生まれるのかな、と思いました。

 「富沢町」というのは、今は南部町に吸収されたかつての町名なんだそうです。平成の大合併ですので割と新しい出来事です。

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 申し上げました通り、ここは微妙な立地です。

 県境から数十メートルしかないですし、おそらく維持管理は山梨の南部町の人たちがやってるっぽいです。少なくとも駐車場はモロに山梨県側ですし。

 しかし私としましては「あくまでも「恋人の聖地」とされる地点は静岡だ!」ってことで、静岡県内(主に東部)で有名な菓子パンをムシャムシャと食してやりました。

 菓子パンの名前としては「のっぽ」といいます。

 「Banderole(バンデロール)」という会社のパンです。

 昔は「ヌマヅベーカリー」って言いました。

 私が通っていた高校の購買部の脇なんかには「NBのパン」と書いてある両手で持ってパンを入れて運ぶプラスチックの什器が積んでありました。「NB」とは「ヌマヅベーカリー」の頭文字です。昔の話です。

 さいきん見かけるようになった「富士のほうじ茶ラテ」味です。

 富士市の茶業としましては「ほうじ茶普及」に全力傾注しておる昨今であります。

 そうだ。思い出しましたけど、南部町というのもお茶生産は盛んな土地です。そうですよ。前に調べたんですけど南部町のお茶を売っている自動販売機があるハズです。次に来るときには富士周辺の農協で作っている缶入りのお茶も持参のうえ、飲み比べをして富士側に軍配をあげようと思います。当たり前じゃないですか。

 写真に写っている「のっぽ」の賞味期限が切れているのは見なかったことにしてください。冷蔵庫に入れてあるのを思い出して「これと富士山を並べて撮影しよう」と出発前に思い立ったのです。

 「のっぽ」が1978年から続くという表記がなされています。

 この「のっぽ」パンの発売は革命的な出来事でした。当時の菓子パンにおいては特別においしかったのです。

 しかしそろそろ50年前の出来事ですから、人生80年と仮定するなら発売された当時を覚えている人のうちもう半分くらいは死んじゃってるかもしれません。ずいぶん古い出来事になりました。もちろん無力な老人である私は鮮明に覚えてますけどね。

 当時すでにパンの小売店としての「バンデロール」っていうお店も存在していたと思いますけど、そっちは割とちゃんとしたパン屋さんっていうかトレーにトングでもってパンを選んでお会計するみたいな。一方の「のっぽ」の方はスーパーのワゴンに大量に積み上げてあって安値で買われていくというような。そんな感じでした。

 ですんで実は「のっぽ」と「バンデロール」という名称が一体になっている現状は古い静岡(主に東部の)県民にとっては若干の違和感があるんじゃないかなって思います。

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 のっぽパンのパッケージ裏側に印刷された富士市周辺ミニミニ情報もお伝えしておこうと思います。

 北のほうを見ますと山梨県側の粗末な駄山がこれでもかと続いているようすが観察できました。似たような山をこんなに並べるなんて山梨の人は“飽きる”という概念を持たないのでしょうか。

 以上、白鳥山の頂上付近のようす。加えまして「いかに静岡県側から見た富士山が美しいか」についてお伝えいたしました。ありがとうございます。

自由民権さぐり旅・第1回「三島の龍沢寺」

 龍沢寺(りゅうたくじ)ですね。

 龍澤寺とも表記されるみたいです。と申しますか、こちらが正式であるようです。看板の写真を見ますと。

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 不定期連載というか、ヒマがないと発生しませんが、私の住む富士市近隣に残る、政治的というか歴史的な旧跡なんかを訪れてみたいと。そうした気持ちに立脚した行動をつづるといった企画です。

 「自由民権さぐり旅」と名付けました。

 大ざっぱには、明治期における社会運動に学ぼうという意図、視点ですけどそれ以外の転換点ですね。敗戦後のことがらなんかも範疇に入れて、見たい、学びたいのです。

 まだよく知らないことだらけですので「手さぐり」っていう意味を合わせました。

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 初回は三島市。私が住む富士市から見ると奥の方。箱根の山の裾野っていう感じですけど、三島の駅までたどりつけば、そこからそんなに離れているわけでもないです。4キロくらいなのかな。

 三島の駅の北側は文教地区でありまして、緑の濃さも含めて雰囲気はかなり良いんですけど、そうした一角から自転車で坂を登っていくとスグでした。

 ホントはちょっと道に迷って県道21号線を北上しそうになったんですが、間違いに気づいて巻き戻しました。あやうく御殿場まで行くところでした。

 龍沢寺は禅寺でありまして、私が行った日にもそうした修行の最中でした。そのため、お庭に入ることはできませんでした。

門からのぞき込むようにして撮ったお写真です

 このお寺には昔、山本玄峰っていうお坊さんがいて、中興の祖っていう役割を龍沢寺において果たしたんですが、戦中戦後における日本のあり方にも影響を与えた存在なんだそうです。

 敗戦における昭和天皇の「玉音放送」ですね。いわく「耐え難きを。……タエ。」っていうよく知られた一節。そもそも山本さんが天皇に進言したという由来であるそうです。鈴木貫太郎内閣ですよ。

 戦中からそうした政府の要人たちが通う。あるいは山本さんが東京に行った際に集まる。そうした光景があったそうなんです。

門柱の上の方に狛犬さんみたいな動物の木像が生えていました

 またこの龍沢寺には田中清玄さんですね。共産党の活動をしていたのだが獄中で天皇主義へ転向した後ですね。山本玄峰さんの下で働いていたと。その後は右翼の大物っていうか政治的フィクサー。児玉誉士夫(よしお)さん以外にそうした人がいたんだって私はつい近年に知ったんですが、私が子供の頃にロッキード事件っていうのがございました。アメリカにもコーチャンっていう可愛らしい名前の人がいるんだと知った。あるいは政商と呼ばれる人の存在。そしてまた李承晩ラインにおける漁民の拿捕、解放とかね。日本と周囲の国々との関係を知っていく最中でした。田中清玄さんって非常に逸話が多い人ですけど終戦工作にも加わった。その一環が上記の「耐え難きを耐え」っていう言葉を含めるその進言を託され上奏したっていうまぁこれはごく内々のものだったようですが歴史的な一幕ですね。ワン・ノブ・昭和史ですよ。ラッパーの故ECD氏の言い回しを借りればね。日本の降伏についての素朴な感想を言えばかなり遅かったなって私は思いますけどソコはソレ。

 つまり龍沢寺は日本が降伏を受け入れる際においての鍵のひとつとなる地であったというわけで、一度は行っておきたいなという。ホントは去年の9月2日にでも行きたかったんですが、コロナのアレで行けませんで、ハンパな日にちですけど去る5月24日に行ってまいりました。

それなりに急峻な階段の上に門がありました

 門だけ見て帰ってきたという次第ですが、別に中を見たいというワケでもありませんでした。

 しかしコレだけはやっておきたいという活動が他にあったのです。

 共同通信社が発行した本で、「ポツダム宣言」や「降伏文書」、「カイロ宣言」、そして「玉音放送(終戦の詔書)」などを1冊にまとめたもので、特にカイロ宣言からポツダム宣言への接続、その大まかなところが理解できたのが収穫でした。私にとってはとても良い本ですけど、この本を自分で電子化しまして、スマホに入れて持参してきたんですね。

これがスマホに収めました当該書籍の画面。大変な名文だと思いますが悲しくもありますね。刀折れ矢尽きたって感じを私は受けるんですが。

 公園のベンチ等で終戦の詔書を再読しようじゃないか。三島の地において、という気持ちがあったのです。つきましては事前にネットで調べておきました。公園の選定です。

 龍沢寺からの帰路は下り坂で非常に爽やかなんですが2キロほど下った地点の大きな橋の手前に公園があります。小さな公園です。

 ここになんと「自由の女神像」が立っているという。サイズは小さいですけどね。

思い切ったことしますよね。三島市民。
背後の電柱の太さからもそのサイズが知れるかと思います。

 橋との関係がよくわかる構図。橋の下に位置しています。下のお写真の奥の下方には沢が流れていますがかなり深いようでした。

橋を見つめる女神

 ポツダム宣言は別名「米英支三国宣言」というそうですが、とりわけアメリカ。それを象徴するような女神像が、龍沢寺のそばに立っている。これにはおどろきました。

草がボウボウ。

 この公園は住宅地の奥に位置していています。おそらく三島市の人にもそれほどその存在を知られていないと思います。

 私の疑問としては、ナゼに自由の女神像をこしらえて据えちゃったか。その理由についてはネットでは判然としませんでした。

 現地にて碑文を参照し確認しましたが、これが気抜けすることに「大きな理由は特にない」というのが真相だったようです。少なくとも表向きには。

来歴らしきものが彫られていますがナゼ自由の女神なんだという説明は特にナシ。
こちらは技術的なクレジットといった趣き。私自身が石に写り込んでいますがマヌケで良いと思いますのでこのまま掲載いたします。自分で思いますが私も老いましたね……。わりと年齢不詳系で通してきたんですがさすがに50代後半ともなると今は昔ですよ。

 疑問に対する一応の解が得られたからには、この近所の人たちのみが使用すると思われる憩いの場。ココに私のような部外者が長居するのもいけません。

 手短に読んでしまいましょう。昭和20年8月15日に昭和天皇が国民に向けて何を語ったか。

 ところでこの日の私の足元をご覧ください。

足の動きを阻害しないようにという意図で上の方はゆるく結んでいます。

 ドクターマーチンの14ホール。真っ赤なロングブーツ。ミック・ロンソンもかくやってオモムキですよ。ロンブーはいてワウを踏むっていうね。若い頃に限定の所業。トシとってからだとああはいきません。

 ホントはロンソン氏の場合はロンドンブーツの文脈だと思いますので、労働者階級のシンボルみたいなドクターマーチンシューズとは違うんですけど、私自身がパンクな文脈の人なんでこっちだなっていうね。

 久しぶりに履きました。14ホールっていうと履きにくく脱ぎにくい。不便な靴。普段の私はもっぱら8ホールか10ホールを愛用していますが、こちら14ホールのロングブーツともなりますとね。あんまり買う人もいないので、しかもハデだしね。半ばお店の中のディスプレイって感じであって。いつから置いてあったのか知りませんが買った時からもう古びていましたけど、あんまりそういうのが気にならないタチです。意味はないんですが日本が降伏した際の鍵となる地に履いて行きたかったんですよね。この不便なブーツを。

 この時点で午後4時過ぎだったと思います。

 富士宮市から帰宅するのと事情が違って、大きな道沿いを辿りますので、別に帰宅が遅くなっても良いのですが、明るい内によく知っている地域に戻りたいのも事実。

 三島から富士までは平坦な道ですので差し支えない区域であれば自転車でも時速30キロ程度で走れますけどそれも明るいうちですよね。路面の大小のギャップを拾いたくないので明るいうちに通過したいです。

 上のお写真の時点でもう6時頃だったと思いますがまだ明るいですね。富士市内に戻ってきた後です。原田という地域の神社。私が昔に通っていた高校のすぐソバです。

 ちょっと休憩して自転車のライトを取り付けて、それと何か食べようということで、出かける際に近隣のお店で買っておいた「ほうじ茶ようかん」を食べました。富士市の最近の名物です。当ブログに登場するのは2回目です。

 思っていたよりもおなかが減っていたみたいで気がついたら1本まるごと無くなっていました。

 そんな1日でした。暗くなる前に帰宅できてよかったです。

TROMS〔b09〕グレート・ザ・防潮堤

 きのう掲載したお写真にもチラッと写っていますけど、堤防というか防潮堤というか防波堤のお話です。

草ボウボウの海岸に降り立った地点から見上げた堤防の姿です

 富士市から沼津市までつながっている長い堤防です。20kmあります。

 高さもかなりあって「日本一の堤防」とする向きもあるようです(後述)。

 構造的には上のイラストの通りでありまして、2段になっています。平らな部分はどちらも自動車が通れるくらいの幅があります。特に下の方は車がすれ違えるくらいの幅があると思います。場所により少し狭くなっているかもしれません。

 そんな感じですから基底部の幅はおそらく数十メートルの規模です。

 自動車で進入できるようになっていますけど、あくまで堤防の管理用の道でありまして。少し行くとチェーンで通行止めになっています。長くは走れません。自転車、あるいは徒歩。ランニングであれば通り抜け可能です。

 この道が私は好きです。前にチラッと書きましたけど井上陽水さんの「つめたい部屋の世界地図」っていう曲がよみがえってきます。「ピポー」っていうアナログシンセの音色なんですけど井上さんの若い頃の際立った声質には伸びやかなアナログシンセの音色が合うんだなと。そんな感想を持ちます。

 堤防の高さについてですが、富士市の領域においては海抜17メートル。

 沼津市ではもうちょっと低くなっているようですが、数メートルの違いです。この写真に写っている地点というのは富士市か沼津市か曖昧というか中間ですので、もう沼津市の高さに沿っているかもしれません。

 50センチの幅のコンクリートで覆ってあると市の発行物には記載されていました。時折補修工事をしていて強度を保持しているようです。

 この堤防はかなり古い構造物です。

 昭和30年代のものですね。

 経済的に余裕があった時期に作っておいてよかったのではと私個人は思っています。こんな長大なものはイキオイがないとムリですよね。

 ところが私が生まれた昭和41年の台風で富士市に被害が発生しまして。堤防を乗り越えて家というか集落が押し流されまして。

堤防の崩壊の様子を伝える当時の「広報ふじ」です。瓦解しておりますね。
合併直前の広報誌ですので誌名としては「よしわら」となっております。
非常に深刻な被害であったことがわかります。

 追加の対策として堤防のかさ上げが行われました。

 富士市だけ堤防の高さが沼津よりもちょっと高いというのは、おそらくこの追加工事に由来するのでは、と思います。

堤防の内陸側の姿です。こちらには人が歩けそうな段が設けてあります。
松の林がずっと続いているんですが、いわゆる「千本松」と呼ばれるもの。歌人 若山牧水が愛したっていうアレです。厳密には沼津の領域の呼称だと思うんですが連続しておりますのでマ、いいかなっていう。

 ご当地アイドルである「3776(みななろ)」の動画においても、この堤防のようすを見ることができます。殺風景なだけでなく女子分も欲しいじゃないか、という方は見てみてください。

 「【踊ってみた】Beethoven: Symphony No. 7, 4th movement – ベートーヴェン:交響曲第7番第4楽章 」という動画です。

 ベートーベンの交響曲に合わせて踊るという意欲的な内容。かなりアレンジされておりまして、興味深いと思います。明るい気持ちになれますよ。

 たくさんある3776動画ですが、他の富士市や富士宮市の良い場所が網羅されておりますので当地の紹介にはうってつけです。

 興味のある方は参照してください。

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 この日、去る5月30日ですが、気温は高かったですけど湿気は比較的低くて、お昼すぎであるにもかかわらず富士山が見えました。

 せっかくですのでお写真を数葉ご紹介して本日は終了といたします。ありがとうございました。

 年に数日、5月の末から6月初頭にかけてこんな日があります。富士山がお昼に見えてうれしいっていうのと、それと湿気が少なくて爽やかだっていう二重の喜びですね。

元吉原の区域、高台になっているところからの富士山です
柏原からの帰路。海岸から北上した感じ。住所的には富士市三新田のあたりからの富士山です
上のお写真と同じ場所からの別ショットです。これはかなり色調整しましたよ。アナログ製版的に申しますと赤を洗った感じ。
元吉原の高台よりの製紙工場の姿です。奥の山は愛鷹山(あしたかやま)です。

TROMS〔b08〕柏原(かしわばら)の海岸に行ってきました。

 ゲラティック号が浜に打ち上がった件について、こんなに回を重ねることとなろうとは思ってもおりませんでした。

 せっかくですので、久しぶりに現地を訪れてまいりました。

 今はどうなっているんであろうか。

 柏原という土地は、富士市のはじっこにありまして沼津市と接しています。

 5月のかなり気温が高い日に行ってまいりました。暑かったです。

 砂浜というよりも鶏卵大の石が多い印象でした。

 これが今現在の柏原なのかと、ちょっとビックリ。

 砂の部分も残っておりますが、かなりせまい領域。

 しかし私がこの件について参照した最近の「広報ふじ」上では、地元の人が「今は砂浜が狭くなったね」なんてことを言われておりますので、状態は変化しているのであろうなと思います。

 なにしろ40年以上前のことです。

 海岸と呼べる領域自体が狭くなっておりますので、もうここに大きな船が立つのはムリっぽいなと感じました。

 ゲラティック号の事件って砂が豊富にあった時代でしか起こりえなかったのだな。そんなことを思いました。