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ライブ観覧記・富士吉原キッカーズ

 日付が変わってしまいましたが、2月10日の土曜の晩にライブを見に行きました。市内のお店です。

 普段はサッカーの試合の中継を若い人たちが見にきてワイワイやるといったお店。

 ライブも時々やっています。私はずいぶん久しぶりに行きました。

 6時半からの早いスタートなのですが、所用ございましてジャンボエンチョー(県内で有名なホームセンター)で買い物していたらちょっと遅くなってしまいました。

 お店ではホットコーヒーを飲みました。とてもおいしかった。

 お客さんはみなだいたい若い方でかなりお酒も飲んでいる感じ。

 転換時はDJタイム。人生の「よっちゃった曲」やビートたけしさんの「しびれて感電死の曲」などを聞きました。あとは田我流さんのラップ。以前にここに来た時もスティルイチミヤの「死んだらどうなる」だったかを聞かせてもらった気がします。同じ方がDJだったのかわかりませんが、もしかしたらお好きなのかも。

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 けっこうな数のバンドが出演いたしまして、終わったのが10時半前。いつもなら私は完全に寝ている時間です。急いで帰ってきました。今も眠いんですけど書けるだけ書いておこうと思います。

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 Globalovel Funkersというファンクバンドの演奏を聞きました。全く初めて知ったんですが非常に良いバンドでした。大変に素晴らしい。よく練習してますね。緻密に合わせるところも大雑把なところも総合的にバンドサウンドとしていきおいを感じました。

 フロントマンの態度が実に立派だった。全部引き受けている感じに感銘を受けました。バンドも良くて。ドラムとベースは最初から最後までずっと良かった。エレキギターの人は5回くらい非常に良い見せ場を作っていました。確信を持って演奏していてフレーズを自分のものとしているところが良かった。あとエレガットかエレアコの人がいるんですけどバンドサウンドの足りないところを適宜補強しているといった感じで好印象でした。あと素晴らしいのがサックスの人がいるんですけどやはりファンクに管楽器は絶対必要だなって思いました。この人も立派でしたね。準フロントマンって感じで大きく構えてバンドを大きく見せる貢献をしていたと思います。

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 そのあとに富士山ご当地アイドルの3776(みななろ)を見ました。やっと見れて感激。

 あまり見に行けないので、できればプロデューサーの石田さんのエレキギター演奏も聴きたかったのですが、もしかしたら今現在の形態はそういうんじゃないのかもしれません。全曲が新曲だということでしたが、どの曲も良かった。特に最初と最後の曲が私は良いなと思いました。最後の曲はたしか「二人乗り」の曲だったと思いますが、ポップスのエバーグリーンな魅力の詰まった曲でとても良かった。若いって良いですね。楽しくもしみじみとする曲でした。

 どの曲も石田さんのシングルコイルのエレキギターの演奏が重ねてあって、その部分では満足しました。以前の曲では「やっぱりロック出身なんだな」って感じのカッティングとしてはちょっと太めの音色が多かったと思うんですけど、今の楽曲はシンセなどの音数も多いせいか細めというかエフェクティブというか、これはこれで私は大好物なので楽しかったです。今の楽曲群はまだCDになっていないということでしたけど、音源発表の暁には私も手に入れたいものだと思いました。

 そんなワケで形態としてはカラオケに合わせてメンバーの井出ちよのさんが歌うというものでしたが、井出さん特有の声質を巧みに使い分けながらのカラフルな歌唱が生で聞けて大満足。踊りも上手でした。非常に均整のとれた体格の人で爽やかな印象。後ろの方で見たので衣装はあまりよく見えませんでしたが、ネット上の情報によると自作なんだそうです。以前はお母さんが作ってくださっていたそうですけど、そういう器用な部分は受け継いでいるみたいで感心します。非常に手の込んだ制作物であるようです。

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 最後はモリクン&ザ・ボケッツ。地元のバンドですけど全然普通に東京でもライブするバンドです。以前にモリクンさんご自身から売っていただいたCDを復習してライブに臨みました。聞いたことがない曲も含めてもう本当に良いっていうか涙がこみ上げてきそうな思いを何度もしました。以前のライブでちょっとだけ「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」の演奏を聴いたんですけど、もう同じビートルズファンとして近い感性を感じて仕方がないです。歌いながら頭をふるところなんか若き日のジョン・レノン氏のそれとかぶって、なんかもう今夜は胸にこみ上げてくるものばかりでちょっと夢見心地だったかもしれません。

 楽曲「家を出た」におけるギターソロの音色が「これだ!」って感じで大感激。私が想像するだけの話ですけど相当こだわったトーンじゃないかと思います。歌メロをなぞるゆったりしたフレーズなんですけど絶品。別に変わったことをしているわけじゃない実にオーソドックスな音色なんですけどそれだけに言い訳の効かない正直な音。最の高。出だしで総毛立ちました。いいもの聴けて大感謝。リードギターの方は以前のプレイスタイルですと複弦フレーズを交えた渋い印象を持っていましたけど今はもう少しロックに寄せているのかなと感じました。使用ギターはソリッドを弾いてらしてチェリーレッドのSGだったと思います。モリクンさんは全然アヤフヤですけどリップスティックがついたギターだったかも。いずれにしろギター2本のバンドをよく研究していることは間違いないのでアンサンブルとして文句なし。完璧っていうよりもちょっと隙間を作って入りやすいようにしてある作りかなと思いました。こういうの大事です。その他のメンバーの方に関しても最高と表現するより他ありません。良かった。また聴きに行きたいです。良い夜でした。幸せです。感謝感謝。

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 モリクンさんが今60歳だということなんですけど私よりもちょっと先輩なんですよね。ワタナベマモルさんとか。多分モリクンさんとか私なんかがあのお店の今夜の空間における最年長なのかなって思いました。でもまだ私ももうちょっとロックの現場にいて大丈夫なのかなって思った夜でした。何度も書くようですがこみあげてきて泣きそうな夜でした。

自由民権さぐり旅・第1回「三島の龍沢寺」

 龍沢寺(りゅうたくじ)ですね。

 龍澤寺とも表記されるみたいです。と申しますか、こちらが正式であるようです。看板の写真を見ますと。

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 不定期連載というか、ヒマがないと発生しませんが、私の住む富士市近隣に残る、政治的というか歴史的な旧跡なんかを訪れてみたいと。そうした気持ちに立脚した行動をつづるといった企画です。

 「自由民権さぐり旅」と名付けました。

 大ざっぱには、明治期における社会運動に学ぼうという意図、視点ですけどそれ以外の転換点ですね。敗戦後のことがらなんかも範疇に入れて、見たい、学びたいのです。

 まだよく知らないことだらけですので「手さぐり」っていう意味を合わせました。

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 初回は三島市。私が住む富士市から見ると奥の方。箱根の山の裾野っていう感じですけど、三島の駅までたどりつけば、そこからそんなに離れているわけでもないです。4キロくらいなのかな。

 三島の駅の北側は文教地区でありまして、緑の濃さも含めて雰囲気はかなり良いんですけど、そうした一角から自転車で坂を登っていくとスグでした。

 ホントはちょっと道に迷って県道21号線を北上しそうになったんですが、間違いに気づいて巻き戻しました。あやうく御殿場まで行くところでした。

 龍沢寺は禅寺でありまして、私が行った日にもそうした修行の最中でした。そのため、お庭に入ることはできませんでした。

門からのぞき込むようにして撮ったお写真です

 このお寺には昔、山本玄峰っていうお坊さんがいて、中興の祖っていう役割を龍沢寺において果たしたんですが、戦中戦後における日本のあり方にも影響を与えた存在なんだそうです。

 敗戦における昭和天皇の「玉音放送」ですね。いわく「耐え難きを。……タエ。」っていうよく知られた一節。そもそも山本さんが天皇に進言したという由来であるそうです。鈴木貫太郎内閣ですよ。

 戦中からそうした政府の要人たちが通う。あるいは山本さんが東京に行った際に集まる。そうした光景があったそうなんです。

門柱の上の方に狛犬さんみたいな動物の木像が生えていました

 またこの龍沢寺には田中清玄さんですね。共産党の活動をしていたのだが獄中で天皇主義へ転向した後ですね。山本玄峰さんの下で働いていたと。その後は右翼の大物っていうか政治的フィクサー。児玉誉士夫(よしお)さん以外にそうした人がいたんだって私はつい近年に知ったんですが、私が子供の頃にロッキード事件っていうのがございました。アメリカにもコーチャンっていう可愛らしい名前の人がいるんだと知った。あるいは政商と呼ばれる人の存在。そしてまた李承晩ラインにおける漁民の拿捕、解放とかね。日本と周囲の国々との関係を知っていく最中でした。田中清玄さんって非常に逸話が多い人ですけど終戦工作にも加わった。その一環が上記の「耐え難きを耐え」っていう言葉を含めるその進言を託され上奏したっていうまぁこれはごく内々のものだったようですが歴史的な一幕ですね。ワン・ノブ・昭和史ですよ。ラッパーの故ECD氏の言い回しを借りればね。日本の降伏についての素朴な感想を言えばかなり遅かったなって私は思いますけどソコはソレ。

 つまり龍沢寺は日本が降伏を受け入れる際においての鍵のひとつとなる地であったというわけで、一度は行っておきたいなという。ホントは去年の9月2日にでも行きたかったんですが、コロナのアレで行けませんで、ハンパな日にちですけど去る5月24日に行ってまいりました。

それなりに急峻な階段の上に門がありました

 門だけ見て帰ってきたという次第ですが、別に中を見たいというワケでもありませんでした。

 しかしコレだけはやっておきたいという活動が他にあったのです。

 共同通信社が発行した本で、「ポツダム宣言」や「降伏文書」、「カイロ宣言」、そして「玉音放送(終戦の詔書)」などを1冊にまとめたもので、特にカイロ宣言からポツダム宣言への接続、その大まかなところが理解できたのが収穫でした。私にとってはとても良い本ですけど、この本を自分で電子化しまして、スマホに入れて持参してきたんですね。

これがスマホに収めました当該書籍の画面。大変な名文だと思いますが悲しくもありますね。刀折れ矢尽きたって感じを私は受けるんですが。

 公園のベンチ等で終戦の詔書を再読しようじゃないか。三島の地において、という気持ちがあったのです。つきましては事前にネットで調べておきました。公園の選定です。

 龍沢寺からの帰路は下り坂で非常に爽やかなんですが2キロほど下った地点の大きな橋の手前に公園があります。小さな公園です。

 ここになんと「自由の女神像」が立っているという。サイズは小さいですけどね。

思い切ったことしますよね。三島市民。
背後の電柱の太さからもそのサイズが知れるかと思います。

 橋との関係がよくわかる構図。橋の下に位置しています。下のお写真の奥の下方には沢が流れていますがかなり深いようでした。

橋を見つめる女神

 ポツダム宣言は別名「米英支三国宣言」というそうですが、とりわけアメリカ。それを象徴するような女神像が、龍沢寺のそばに立っている。これにはおどろきました。

草がボウボウ。

 この公園は住宅地の奥に位置していています。おそらく三島市の人にもそれほどその存在を知られていないと思います。

 私の疑問としては、ナゼに自由の女神像をこしらえて据えちゃったか。その理由についてはネットでは判然としませんでした。

 現地にて碑文を参照し確認しましたが、これが気抜けすることに「大きな理由は特にない」というのが真相だったようです。少なくとも表向きには。

来歴らしきものが彫られていますがナゼ自由の女神なんだという説明は特にナシ。
こちらは技術的なクレジットといった趣き。私自身が石に写り込んでいますがマヌケで良いと思いますのでこのまま掲載いたします。自分で思いますが私も老いましたね……。わりと年齢不詳系で通してきたんですがさすがに50代後半ともなると今は昔ですよ。

 疑問に対する一応の解が得られたからには、この近所の人たちのみが使用すると思われる憩いの場。ココに私のような部外者が長居するのもいけません。

 手短に読んでしまいましょう。昭和20年8月15日に昭和天皇が国民に向けて何を語ったか。

 ところでこの日の私の足元をご覧ください。

足の動きを阻害しないようにという意図で上の方はゆるく結んでいます。

 ドクターマーチンの14ホール。真っ赤なロングブーツ。ミック・ロンソンもかくやってオモムキですよ。ロンブーはいてワウを踏むっていうね。若い頃に限定の所業。トシとってからだとああはいきません。

 ホントはロンソン氏の場合はロンドンブーツの文脈だと思いますので、労働者階級のシンボルみたいなドクターマーチンシューズとは違うんですけど、私自身がパンクな文脈の人なんでこっちだなっていうね。

 久しぶりに履きました。14ホールっていうと履きにくく脱ぎにくい。不便な靴。普段の私はもっぱら8ホールか10ホールを愛用していますが、こちら14ホールのロングブーツともなりますとね。あんまり買う人もいないので、しかもハデだしね。半ばお店の中のディスプレイって感じであって。いつから置いてあったのか知りませんが買った時からもう古びていましたけど、あんまりそういうのが気にならないタチです。意味はないんですが日本が降伏した際の鍵となる地に履いて行きたかったんですよね。この不便なブーツを。

 この時点で午後4時過ぎだったと思います。

 富士宮市から帰宅するのと事情が違って、大きな道沿いを辿りますので、別に帰宅が遅くなっても良いのですが、明るい内によく知っている地域に戻りたいのも事実。

 三島から富士までは平坦な道ですので差し支えない区域であれば自転車でも時速30キロ程度で走れますけどそれも明るいうちですよね。路面の大小のギャップを拾いたくないので明るいうちに通過したいです。

 上のお写真の時点でもう6時頃だったと思いますがまだ明るいですね。富士市内に戻ってきた後です。原田という地域の神社。私が昔に通っていた高校のすぐソバです。

 ちょっと休憩して自転車のライトを取り付けて、それと何か食べようということで、出かける際に近隣のお店で買っておいた「ほうじ茶ようかん」を食べました。富士市の最近の名物です。当ブログに登場するのは2回目です。

 思っていたよりもおなかが減っていたみたいで気がついたら1本まるごと無くなっていました。

 そんな1日でした。暗くなる前に帰宅できてよかったです。

TROMS〔b09〕グレート・ザ・防潮堤

 きのう掲載したお写真にもチラッと写っていますけど、堤防というか防潮堤というか防波堤のお話です。

草ボウボウの海岸に降り立った地点から見上げた堤防の姿です

 富士市から沼津市までつながっている長い堤防です。20kmあります。

 高さもかなりあって「日本一の堤防」とする向きもあるようです(後述)。

 構造的には上のイラストの通りでありまして、2段になっています。平らな部分はどちらも自動車が通れるくらいの幅があります。特に下の方は車がすれ違えるくらいの幅があると思います。場所により少し狭くなっているかもしれません。

 そんな感じですから基底部の幅はおそらく数十メートルの規模です。

 自動車で進入できるようになっていますけど、あくまで堤防の管理用の道でありまして。少し行くとチェーンで通行止めになっています。長くは走れません。自転車、あるいは徒歩。ランニングであれば通り抜け可能です。

 この道が私は好きです。前にチラッと書きましたけど井上陽水さんの「つめたい部屋の世界地図」っていう曲がよみがえってきます。「ピポー」っていうアナログシンセの音色なんですけど井上さんの若い頃の際立った声質には伸びやかなアナログシンセの音色が合うんだなと。そんな感想を持ちます。

 堤防の高さについてですが、富士市の領域においては海抜17メートル。

 沼津市ではもうちょっと低くなっているようですが、数メートルの違いです。この写真に写っている地点というのは富士市か沼津市か曖昧というか中間ですので、もう沼津市の高さに沿っているかもしれません。

 50センチの幅のコンクリートで覆ってあると市の発行物には記載されていました。時折補修工事をしていて強度を保持しているようです。

 この堤防はかなり古い構造物です。

 昭和30年代のものですね。

 経済的に余裕があった時期に作っておいてよかったのではと私個人は思っています。こんな長大なものはイキオイがないとムリですよね。

 ところが私が生まれた昭和41年の台風で富士市に被害が発生しまして。堤防を乗り越えて家というか集落が押し流されまして。

堤防の崩壊の様子を伝える当時の「広報ふじ」です。瓦解しておりますね。
合併直前の広報誌ですので誌名としては「よしわら」となっております。
非常に深刻な被害であったことがわかります。

 追加の対策として堤防のかさ上げが行われました。

 富士市だけ堤防の高さが沼津よりもちょっと高いというのは、おそらくこの追加工事に由来するのでは、と思います。

堤防の内陸側の姿です。こちらには人が歩けそうな段が設けてあります。
松の林がずっと続いているんですが、いわゆる「千本松」と呼ばれるもの。歌人 若山牧水が愛したっていうアレです。厳密には沼津の領域の呼称だと思うんですが連続しておりますのでマ、いいかなっていう。

 ご当地アイドルである「3776(みななろ)」の動画においても、この堤防のようすを見ることができます。殺風景なだけでなく女子分も欲しいじゃないか、という方は見てみてください。

 「【踊ってみた】Beethoven: Symphony No. 7, 4th movement – ベートーヴェン:交響曲第7番第4楽章 」という動画です。

 ベートーベンの交響曲に合わせて踊るという意欲的な内容。かなりアレンジされておりまして、興味深いと思います。明るい気持ちになれますよ。

 たくさんある3776動画ですが、他の富士市や富士宮市の良い場所が網羅されておりますので当地の紹介にはうってつけです。

 興味のある方は参照してください。

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 この日、去る5月30日ですが、気温は高かったですけど湿気は比較的低くて、お昼すぎであるにもかかわらず富士山が見えました。

 せっかくですのでお写真を数葉ご紹介して本日は終了といたします。ありがとうございました。

 年に数日、5月の末から6月初頭にかけてこんな日があります。富士山がお昼に見えてうれしいっていうのと、それと湿気が少なくて爽やかだっていう二重の喜びですね。

元吉原の区域、高台になっているところからの富士山です
柏原からの帰路。海岸から北上した感じ。住所的には富士市三新田のあたりからの富士山です
上のお写真と同じ場所からの別ショットです。これはかなり色調整しましたよ。アナログ製版的に申しますと赤を洗った感じ。
元吉原の高台よりの製紙工場の姿です。奥の山は愛鷹山(あしたかやま)です。

TROMS〔b08〕柏原(かしわばら)の海岸に行ってきました。

 ゲラティック号が浜に打ち上がった件について、こんなに回を重ねることとなろうとは思ってもおりませんでした。

 せっかくですので、久しぶりに現地を訪れてまいりました。

 今はどうなっているんであろうか。

 柏原という土地は、富士市のはじっこにありまして沼津市と接しています。

 5月のかなり気温が高い日に行ってまいりました。暑かったです。

 砂浜というよりも鶏卵大の石が多い印象でした。

 これが今現在の柏原なのかと、ちょっとビックリ。

 砂の部分も残っておりますが、かなりせまい領域。

 しかし私がこの件について参照した最近の「広報ふじ」上では、地元の人が「今は砂浜が狭くなったね」なんてことを言われておりますので、状態は変化しているのであろうなと思います。

 なにしろ40年以上前のことです。

 海岸と呼べる領域自体が狭くなっておりますので、もうここに大きな船が立つのはムリっぽいなと感じました。

 ゲラティック号の事件って砂が豊富にあった時代でしか起こりえなかったのだな。そんなことを思いました。