町内の防災界のお仕事です。
そろそろ、12月の訓練に向けて動き出す時期ではないかというコトで会長から連絡が来ました。
部署によっては訓練の準備に時間も必要なので今から計画しようというおハナシです。
つきましては班長さんに立案のお願いをする書類を作成中です。
とりあえずこれを早めに作って隊長と協議して文面を整える予定です。
月末までには配布したいですね。
今日は、近くの博物館でセミナーを受けてきました。
「遠い昔に起きた富士山の火山活動」に関するおハナシです。
(上の写真は博物館の敷地に生えていたキンモクセイです。本日の写真もクリックしますと少し大きくなります。)
山梨の都留文科大学から名誉教授の上杉陽先生をお招きして、お話をして頂きました。
都留文科大学っていうのは、私が調べた所、どうやら国道139号線沿いにあるようです。
国道139号線というのは起点が富士市平野部にあって、地元では「大月線」と呼ぶ幹線道路です。
富士市と山梨の大月市を結ぶんですが、その途中に都留市というのがあるのです。
静岡から見ると河口湖よりも奥の方ですね。
ともあれ「大月線沿いの大学から来たんだ」と思うと何となく親近感も湧きます。
ちなみに私はこの冬、富士山が大きな爆発をした際に溶岩がドロドロと広範囲に流れた痕跡をたどる試みをしてみて、その範囲の広さに腰を抜かしたワケですが、山梨県側だとマサにその139号線をなぞるかのように大月まで溶岩が流れて行ったそうです。河口湖から大月までは下り坂であるらしいのです。
まぁ機会があったら自転車で、富士市から大月まで行きたいと願っているワケですが、それはまた別のおハナシです。
先生は、火山灰がご専門だそうです。
関わった論文のリストがネットに載っていましたが、それを眺めると、地の利を活かしてという事なのか比較的「富士山・東側」にお詳しそうでした。
富士市はエリア的にいうと南西になりますけど、富士市・東田子ノ浦(ひがしたごのうら)駅周辺の遺跡発掘の際に監督された事もあるようで、今回の博物館の展示については良くご存じであるというコトでした。
今回はまず、富士山の歴史を大まかに説明して頂きました。
今、私たちが見ている富士山の下に古い富士山があると言うおハナシです。これって、大まかなトコロはご存知の方も多いのではないでしょうか。
専門的な領域にはとても及ばないと思いますが、やはり2時間ほどのお話を聴くとなかなか興味深いというか、地中と地表上の関連も良く飲み込めて来ます。
かなり驚くような話もあって楽しかったです。
特に足柄から小田原に注ぐ酒匂川(さかわがわ)が、富士山が隆起する前は富士川河口に通じていたと言う話には目ン玉が飛び出ました。
御殿場から十里木のあたりを横切ってドンブラコと注いでいたんですね。ビックリです。
丹沢山系の水が西進していた時代があったんですね。ゴー・ウェストですよ。
富士川河口というと、旧石器時代にはそこから石器にする材料を拾って来たという事らしいのですが、果たして旧酒匂川が関連するのかどうか。
以前に沼津の文化財埋蔵センターで短い説明をして頂いた際に、私は「富士川河口の石って上流から流れて来たんでしょうか」みたいな事をうかがったんですが、まだハッキリしていないと言う解答でした。
あれはもしかしたら酒匂川という要素も無視出来ないせいなのかと、反射的に思ったんですが、まぁ私には正しい所は分かりません。
また我が富士市というか富士宮からズドドドドと流れている潤井川(うるいがわ)が富士山の隆起の影響によって出来た地面のシワから生まれたと言う話も面白かったです。
書いて行くとキリがないんですが、星山丘陵の盛り上がりへの言及も興味深い所でした。
富士山自体の造山活動も含めて今日のお話はかなりダイナミックなイトナミを扱ったように思います。
(下の写真は、前回のエントリにも出て来た「大渕(おおぶち)スコリア」の接近画像です。この写真はクリックしても大きくはなりません)
ここに集められた物は大きい物だと、1センチちょっとくらいでしょうか。大きい物だと5センチくらいの物もあるそうですが。
ポツポツと小さな穴があいているので比較的軽く、柔らかい物です。
しかしこれが高い所からビュンビュン降って来たらそれはもう大変です。
しかし富士市全体から見ても非常に限られた狭い地域のみに降った物であるため、当時の竪穴住居に住んでいた人たちは近隣に避難して、生活を続けたそうです。古墳時代のおハナシというコトです。
(今回の博物館の展示の感想については、コチラにも書いてあります。)