私の小学生時代〔11〕

 私が中学生だった時の先輩のお話です。

 イラストはその人です。

 私は小学生から高校生までずっと「美術部」あるいは「お絵描きクラブ」所属だったんですけど、先輩は中学の美術部の部長さんでした。

 社会人になってからは本屋さんの雇われ店長をしていました。適職だったと思います。

 本屋さんは小学校からすぐの場所にありました。

 今は予備校になっています。

 その前は「テンジンヤ」っていう、おにぎりなどの食べ物を扱うお店でした。これは静岡県内ですと有名なお店チェーンなんですけどね。

 本屋さんだった時期はもうかなり昔のことです。

 いなかの本屋さんにはありがちなのかもしれませんが、卵の自動販売機がおいてあったり、小さなゲームコーナーを店の表に設置したりと、実態がよくわからない感じになっていました。

 帰省するたびにお店によって話をしたりしていました。

 「オイ! ヒジクロッ!」っていうカン高い声が今でも聞こえてくるようです。

 美術部にありがちなんですけど、この人はいわゆる「オタク」の人でした。世代的に言ってもうかなり古いタイプの人でありまして、たとえば友人を見かけた際に「前方にダレソレ軍曹を発見! ダレソレ軍曹にィ~ィ敬礼!」みたいな一連の所作がテレもなくできるという選ばれた感性の持ち主でした。

 私自身はそういうタイプにはならなかったんですけど、美術部界隈の雰囲気にはもう完全に慣れているんで「あいかわらずだな」くらいのもので疑問にも思わない。そんな距離感でした。

 東京での生活を終えて富士市に戻ってきてから「先輩にそろそろ会いに行かなきゃ」って思っていた矢先に友人から「先輩は自殺した」と聞かされたのです。

 何も残さずに死んでいったようで、周囲の人も原因がわからず当惑しているということでした。口々に「自殺するような人じゃなかったのに」ということでした。

 もちろん私にしても何もわかりません。

 ただお店の経営において万引きの被害が多くて悩んでいる様子はありました。お店の前にゲームコーナーを開設したのがいけなかったんじゃないかと思います。想像ですけどね。

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 上の画像はその本屋さんで買ったものです。

 ニューエスト・モデルというバンドの「クロスブリード・パーク」というアルバムです。

 ほんの一時期、レンタルCDの営業もしていたらしいのです。色々と手を出しすぎじゃないかって思うんですけど。

 レンタル事業から撤退した、そのあとにお店に行ったのだと思います。

 不用品としてすごく安く売られていたので私のお財布事情からもお金を出すことができました。

 これが先輩の遺品がわりということになってしまったなと思います。

 良い作品ですのでこの先もずっと持っていられるでしょう。

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 最後に冒頭のブログ用イラストについて説明を加えておきましょう。

 中学生の頃の先輩の姿を描いたというのは説明した通りです。

 風紀委員をやっていたんですよね。曲がったことが許せない人でした。

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 生きていてくれたら私が運営に加わっている地区のお祭りだとかに「来てよ」であるとか言えたのになって思います。

 「ヒジクロが本を出したらサイン会を開いてやる」なんてことも言ってくれていたんですけど、残念ながら本なんて出せていない私です。

 私が死んだ後に先輩と死後の世界で会うことがあったら「死んでんじゃねーよバカ」とネチネチ言ってやろうと思っています。

 カン高い声で抗議してくるでしょうけど、その時にはもう私の方が断然年上ですからひたすら上から言葉でなじってやろうと思います。

 望むところなんですよ。