私の小学生時代〔03〕

 小学生だった時のクラスメイトのお話です。

 下のお写真は入学式の時のものです。

 白い丸で囲んであるのが私です。

 拡大してみましょう。目をつぶっています。

 今日お話しするのは私の1段下にいた子のことです。

 この子だけちょっとモザイクを細かくしました。

 名前は覚えていないので以下は単に「おともだち」とします。

 話しているのを聞いたことはありません。

 体があまり強くなかったのかもと思います。

 手足が細い子でした。

 しかしおそらく幼稚園か保育園が一緒だったのであろう他のお友達から良くじゃれつかれているのを見ました。

 そういう時にはニコニコしていて楽しそうでした。

 一番衝撃を受けたのはプールの授業の時です。

 水泳というか小学1年生ですので「水あそび」って言った方が良いかもしれないんですけど、この子は見学していたのです。

 友達もちょっとザワザワってなって「楽しいのにナゼ!?」ってなりました。

 「プールを休むなんてありえない!」っていうことですね。

 私が一番良く覚えているのはこの時、おともだちが見学していたようすです。イラストにしました。

 おともだちは次第に休みがちになってしまって、そのうち学校に来なくなりました。

 2年生だったか3年生だったか私は同じクラスだったんだと思います。

 ある朝、先生が「おともだちが亡くなったよ」と言ったのです。

 みんなまだ幼かったので動揺したと思うんですが、おともだちのお父さんとお母さんが扉の外まで来ているのでみんなでお話を聞きましょうってなりまして。

 そのご両親の姿がもう見るからに悲しそうなんですね。

 それなのに、クラスのみんなにノートと鉛筆だったかを与えてくださって。

 おっしゃることには「遊んでくれてありがとう」。ということでした。

 悲しそうにしているご両親から大変けっこうなものを頂きまして、しかしもらってしまって良いものなんだろうかと心の整理もゴチャゴチャの私でした。正直なところ何を語ってくださったのか全部は覚えていません。

 悲しそうにしているご両親の姿を思い出します。

 とても悲しいけど感謝の気持ちを伝えに来てくれたんだなと、ボンヤリ飲み込んでいる私だったと思います。

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 数年経った後でもたまにそのおともだちのことを思い出したりしていたのですけど、ある時に「お父さん、お母さんはもしかしたら「この子は長くないかもしれない」と思った時があるんじゃないか」そう思い至りまして、さらにちょっと悲しくなったりしました。

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 この文章を書くにあたり、また考えてみたんですけど、病床の我が子から「外で遊びたい」とか「学校に行きたい」とか訴えられ、それに応じたりしたんじゃないかと思います。泣いたり叫ばれたりしたかもしれません。もしそうであったらそれも悲しいなと思います。

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 下のお写真は、今朝に撮影してきたものですけど、入学式の日にみんなが並んだ階段。それと、きのうの当ブログで出てきた、「校歌の歌碑」の位置関係がわかるお写真です。

 銀色だった手すりは青いペンキで塗られています。

 昔は土手のところに芝とツツジが植えてあって「ひろみ」「丘の上」という形状にツツジの木を整形してあったんですが、今は単にセメントの法面(のりめん)になっています。

 50年も経過したので細部まで見るとかなり変わっています。

 ちょっと殺風景になってしまいましたけど、これが今のあり方なんでしょう。

 そのかわり木は大きく成長し立派になりました。

 大きなソテツが歌碑のそばであるとか、運動場にも植えてあったんですけど、それらはどちらも無くなってしまいました。

 最後に「ディス・イズ・ウチの学校」っていう感じのお写真を紹介いたします。こちらも卒業文集から。

 上から「富士山」「団地!」「運動場」「子どもがいっぱい」っていう配置です。

 ちょっと「ロの字」の幅が広すぎるような気がしますね。その分「ミの字」が狭いような気がしますけど、何か事情があったのかなって思います。