宇宙人の帝国〔11〕

 イラストの説明なんですけど、「車を降りると富士市の海岸線に近い防風林のあるあたりでした。そこにメルセ星人が待ち構えているではないですか!」という場面のイラストです。

 左下にスズキ・フロンテのお尻のあたりが描いてあります。この排熱用のスリットがドワ~って並んでいる感じね。なんともいえません。空気の取り入れ口も別に存在してまして、これがまた垢抜けないデザインで良い味出してました。

 富士駅の南側から海岸線のあたりまでをざっくりいって「富士南地区」なんていいます。度々触れておりますが富士市をお捨てになったギタリスト土屋昌巳さんなんかの出身地ですね。

 だいたい見事なまでの平坦な土地なんですけど戦時中は軍用の飛行場があったりしました。元々そこに住んでいた人は追い払われたということであって、建設には外国から連れてこられた人たちなんかが働かされて、食べるものもないのでフラフラしながら労働していたという。それを不憫に思った土地の人がおにぎりを差し入れたなんていう話も伝わっているわけです。

 戦後その地は戻されたわけなんですけど、農地に戻すまでにはまた大変な苦労があって、排水路の整備であったり、農業用水路の拡幅なんかが伝わっているようです。

 交差点の名前として「靖国」なんていう表記が残っておりまして、なんとも言えない気持ちになります。国家宗教的なシステムの片鱗を見る思い。毎年7月には「中国人殉難者慰霊祭」が行われています。

 上の写真はもっと後の時代になりますが、刻まれている文字によりますと昭和30年。おそらく富士南地区の中でもより海岸に近い地区のことなんだと思いますけど、そこに上水道が通ったことを記念する石碑ですね。

 写真が古くてすみません。10年前に撮影したものです。その時の記憶によりますと当時の皇太子が来てくださったとか。アヤフヤですけどね。

 上水道が通るということがけっこうな一大事だったことが伝わると思います。

 上の画像はまたちょっと時代が近くなりまして、私が生まれた昭和41年。この年に富士市は合併を遂げまして、いわゆる「新富士市」ってことなんですけど、「上水道が通ったよ!」「富士市の全地区が水道の蛇口をひねれば、お水が出るようになったよ!」っていう市の広報誌の画像ですね。「百年来の念願」って書いてありますね。書いた人が文学的な人だったんでしょうか。

 写真に写っているのはこれは懐かしい。市長の斉藤滋与史(しげよし)さんですよ。オールド富士市民にはたまらない。私の記憶にある氏のイメージより何倍も若いです。

 「出たー!」って感じの感動を捉えたお写真。素朴な感動を今に伝える。良いですね。

 マ、こんな感じで富士市の海岸線に近い方のイメージっていうのは伝わりましたでしょうか。

 個人的にはこの石碑からもそんなに遠くないバイク屋さんで生まれて初めての自転車を買ってもらったのが一大イベントなんですけど、そっちは関係ないです。鮫島(さめじま)とか五貫島(ごかんじま)、あるいは柳島(やまぎしま)っていう地区なんですけどね。

 自転車に乗ってご満悦な私と1歳違いの妹の画像です。

 私が着ているのは母親手作りの革のチョッキ。私の革ジャン革パンロックンロール好きはこの頃からだとわかる一枚です。

 こちらのお写真を見ますと、チョッキと半ズボンで揃いのツーピースだったらしいってことがわかります。しかし革の半ズボンは全く覚えていません。チョッキの方は大好きで大のお気に入りでした。

 お写真の説明をしますと、動物園に行って写真を撮ることになったんですが、後ろのラクダさんに噛まれるんじゃないかと心配で表情のすぐれない幼児の時の私の表情です。

 子供はこういうことを心配するんですね。オリがあるから噛まれるわけはないんですけどラクダさんの存在感の大きさに気が気で仕方ないのです。

 来ているセーターは電車が並んでいるなかなか優れたデザインの一着でありまして、一つの列車がポケットになっていたと思います。グッド・デザイン。

 行きがかり上こちらもご紹介しておきましょう。幼児向けテレビ番組におけるお絵描きコーナーを見ながら私が描いた絵(たぶん書かれている通り「ししまい」)です。

 私にとってはごく簡単な行為だったんですけど、母親がえらく喜びまして。写真を撮ろうって表に連れて来てくれました。画像では肝心の描写が判然としませんけど。

 「上手に絵を描くとお母さんが喜んでくれる」。これが私の長く続くことになるお絵描きの原点ですね。でもおそらく絵を描き続ける多くの人にとってもそうじゃないかと思います。はじめはそんなもんですよね。

 私の母親は上述しました通り、子供用のお洋服なんかはチャッチャと作っちゃう割と器用な人だったんですけど、絵はそんなに得意じゃなかったんですよね。

 写真に添えられおります文章なんかも書くのが好きな人でありまして。ここはモロに私が受け継いだ部分です。思い出しましたけど新聞に投書した短歌だか俳句が掲載されたってことが自慢でした。ここは私は受け継いでないですね。

 私は耳で聞く文章を即座に画像化して脳に納めるクセがあるので短歌、俳句などにおける「定型」っていうものが身につかないんですよね。絵にしたほうが早いじゃんってことでもあります。別の人が作った俳句や短歌を聞くのは好きなんですけど、それも全部画像化しちゃうんで元の文章は残らないです。