ジャケットだったか背広だったかわかりませんけどキチンとした身なりの2人でひと組の活動。
全国的なものだったのか知りませんけど、創価学会の若い人たち。
そうした姿を当時は見かけました。
「お金がありそうな家にしか行かない」みたいなことを地元では言われていましたが、これはわかりません。
かつての折伏(しゃくぶく)大行進で反感を買ったという自覚があったのか知りませんが見た目はスマートな感じでやっていたと思います。
この人たちは当時は大石寺の中の警備なんかも担当していたのだと思います。
大石寺ってとてもとても大きな敷地を持つお寺なんですが、雰囲気が独特なんですよね。
ピーンと張り詰めたような空気を感じます。
「お寺」と聞いて素朴にイメージするような「和」の枯れた風情的なものは無いというか。
創価学会と決別した今でもその緊張感は残っているように感じます。この感覚は私だけなんでしょうか。
山門がパカッと割れて地下がせり上がってきて戦車や武装した僧兵の集団が現れてきても私には意外じゃありません。
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私は高校3年生の頃に自動車の教習所に行って免許を取る勉強をしました。
そこに若いお坊さんたちも来ていました。
教習所の社長さんがなんでも創価学会の信者であるのだと聞いていました。
それでお坊さんには優先的に便宜を図って免許の学習をさせているとか何とか。
その時の印象なんですけど、あんまり人としての質は高くなかったように思います。その若いお坊さんとされる人たちの印象ですが。
この人たちに比べたら町の普通の人たちの方が宗教心的なものをわきまえてるように感じる。そんな感想を持ちました。
「長じて、こいつらに仏教の教えを垂れてもらったりお経を読んでもらう機会がないとも言えないとしたらなんかヤダな」っていう気持ちですよね。皮膚感覚としてね。
なんとも言えずギラギラした存在感があっておよそ煩悩から断ち切られた所作を身につけているとは思えませんでしたしその過程にある。あるいは向き合っているっていう感じも皆無でした。
ギラギラしてゲラゲラ笑っているっていう。品の無い奴らだなって思っていました。
私と同年代の人たちでしたけど今はどうされてるんでしょう。そのままホトケの道を歩まれているんでしょうか。