むらびとカンガルー〔14〕

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 今日のイラストは割とウマくいったんじゃないですか。
 自画自賛しますけど。
 私の描くキャラクターの中でも特にノンキなコンビに出てもらいました。
 ツチブタとウォンバットのおじさん。
 この人たちは度々出てくるんでそろそろ名前を付けたほうがイイかもしれませんね。

 カンガルーのおじさんがお酌してもらっているトコロです。

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 残りの後半はラジオ日記です。

 NHKのラジオ番組「声でつづる昭和人物史」の過去放送分を聞き逃しサービスで聞きました。
 三島由紀夫さんの肉声を聞くつもりでサイトを開いたのですが、ドナルド・キーンさんの過去放送もあったのだと知りました。
 4回放送の分の2回はすでに公開終了。
 3回目も今日の午後で公開終了だと知り、その気はなかったのですが、これはありがたいと思い耳を傾けました。

 太宰治さんを翻訳するのは非常に楽だったというお話。それに比べると三島由紀夫さんの日本語は作業として難しかったというお話。
 キーンさんの言葉の端々から日本文学へのというか作家個々人への愛情がよく伝わってきましたね。

 他には俳句における母音の連なりがもたらすリズムについて。ここは非常に興味深い点でした。心理的な作用にまで話が及んでいたと思います。あるいは日本語を母語とする日本人にとっての俳句、キーンさんのように日本語を学習したのちに接する俳句との受け止めの差異など。
 おそらく描きたい情景や心情によって母音だけでなく子音の連なり、そのリズム、起伏といったものも変わってくるのだろうなと気付いた私でした。

 番組の体裁としては、キーンさんのお話の間に、保坂正康さんと宇田川清江アナウンサーの対話が挟まる形式でした。これはこの番組の通常のフォーマットなんですけど。

 ドナルド・キーンさんの交友関係がスゴいっていうお話でしたが、これは本当にそうで。
 というか、もしもキーンさんがいなかったら。これはほんの断片の断片しか知らない私が考えてもコマりますね。私は安部公房ファンですので主にそこに関連する部分の知識しかありませんけど。

 マしかしねぇ。思うに日本の文学や文化に対する理解の深さがあったからこその交流だったのかなと思います。
 翻訳する人って別に両方の言葉をよく知っていれば成り立つというのでもないのワケですし。とりわけ文学ね。
 最近も柳美里さんの翻訳作品がアメリカで権威ある賞を授けられてました。
 柳さんのコメントを見る機会がありましたが、まず翻訳者の仕事を褒めてらして。地域性の強い作品だというコトからそうした部分までひろいあげるという難しさがあったのではないか。そんな文脈だったと思います。
 ちょっとその翻訳された方を調べてみたらまだ若い女性でビックリ。少しだけその言葉をネットで読みましたが、やはり知性、深い考察、理解力を感じました。
 小説家よりも翻訳家の方が文の構造だったり本来の意味用法についてはよく知っていたり厳格であるっていう例はそこかしこで見かけます。まぁ大変な仕事なんだろうなって。今更のようですが思いました。

 なんだか他人事みたいにしてまとめましたけど、私が愛読するフィリップ・K・ディックの作品も翻訳する人がいないと読めないワケですから、大事! もう本当に大事なんですよね。