フクロオオカミさんたち〔15〕

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 タルを作っている最中のツチブタさんです。

 タイトルとしては「フクロオオカミさんたち」なんですが、ツチブタさんだけの描写になってしまいました。

 せめてフクロオオカミさんと同じ村の住人というコトにしておこうかと思います。

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 最近の当ブログは「自動投稿」でして、私は主に「部屋のそうじ」をしています。不用品の処分とも言えるんですが。
 そうした事情から、ブログの内容がリアルな時間経過とリンクしていないのですが、今日は久しぶりにラジオの話題を書いておこうと思います。

 いつも聞いているNHKラジオ第1「らじるラボ」。
 このところの「音のアーカイブ」。NHKに残る音素材ですね。
 ずいぶんと楽しませてもらっております。
 番組では三木鶏郎さんですとか、その時代の作家が残した楽しい番組テーマ曲などを聞いてきた最近の内容であります。

 また、違う番組になりますが「現代の音楽」ね。
 こちらでは2週にわたり武満徹さんがNHKに残したお仕事を振り返りまして、大変に充実した内容でした。これなんかもまさにNHKだからできる内容。

 思えば私が数枚ほど所有している「NHK電子スタジオ」もの。これなんかもアーカイヴ音源の最たるものであるワケです。
 話は逸れますけど最近流通しているものには若き日の西村朗さんの作による電子音楽が収められた盤もあるみたいで、なんとかして入手したいと思っております。

 まぁそんな古い音源鑑賞が楽しいワケなんですけど、今週の「らじるラボ」は、古い民謡を取り扱っています。
 クラブDJの視点から捉え直した民謡というおもむきです。

 私は初めて知ったんですが、DJユニット「俚謡山脈(りようさんみゃく)」のおふたりの選曲と解説。クラブ・ミュージックの人たちですよ。

 自分のことを一般化するワケじゃないですけど、やっぱり私もそうした文脈の人間であるので、大変に内容が頷ける論調に満ちているというか、またあえて言語化して論じる内容を聞くことにより、私の中でのモンヤリとした思いがハッキリする。という楽しさもあります。もちろんソコを足がかりにして、さらに考えを深めたいワケなのです。

 本日は民謡が変容していくサマを追った深い内容。
 これまでの数日は歌を器楽的に捉えたりという割と表面的というか、芸能音楽、民族音楽というものをフィーリングで捉え直してみるというものだったと思いますので、ちょっと踏み込んだなっていう感想でした。

 つまり元は1ヶの歌からいろんなバージョンが生まれて変容していく。
 聞き覚えた歌を自分の村でもやってるうちに別物になっていく。
 これはもうスゴく興味深い。

 アメリカのブルース(ブルーズ)なんかも元は1ヶの歌が改作に改作を重ねてそれぞれ何ヶか別の、今、知られるソングになっていたりするのだと聞きます。
 あるいはホントに古いものは歌としての起承転結が無かったりしますからね。ドミナント・モーションっていうかね。
 車座になってずっと騒ぐにおいてはワンコードとか半音上がるだけとかのとてもシンプルな形式が都合良かったのかもしれません。
 鑑賞する音楽と、時間を共有するための音楽って機能としても形式としても違ってくるんだなって思います。

 「ニッポン時空旅」でも歌が変容していくサマというのはひんぱんに取り上げられていて、もうたまらなく面白いんですね。

 民衆の中で大ヒットしたビッグなムーブメントがお上から禁止されて、しかし宮中だったりの遊びとして受け継がれていったものの、野趣である部分はすっかり失われてしまってミヤビやかな印象しか残っていなかったりね。はんなりとした。それを聞いて「どこが強烈なグルーヴなんだよ」ってガッカリしたりするんですけど、マそれもまた人々のイトナミであるワケで、おもしろいなって思いますよ。

 そんなワケなんですけど、奇しくも当ブログではきのう投稿だった「タルを太鼓にして叩く」という形式ですね。
 日常の什器を楽器に転用するという楽しさなんですけど。

 この樽太鼓の来歴について俚謡山脈のおふたりから教えられました。
 私は「ニッポン時空旅」の「八木節」の回を聞き逃し配信で聞いて学習し、イラストを描く際にはネットで調べてみたんですが、どうやら新潟で非常にポピュラーなものなんだなと知ったのでした。こどもたちがお祭りで列になって叩いている写真なんかがたくさんあるんですね。
 「へー」って思って、そこで止まっていたんですが、本日知った内容によると、新潟の人たちが群馬の平地の方の宿場町に多く勤めていたと、そういった経緯から持ち込まれた文化なのであるという、そうした内容。
 とても納得がいきました。感謝であります。

 それと民謡という文化について、「保存」していくコトもまた大切なのであろうけど、伝搬変容していくコトもまたおもしろいという。
 私もそうだよなって思います。

 もう古来のその地方に存在したスケールで歌を歌える人というのは絶えているワケで、これは仕方ない。
 しかし古い音源にはギリギリ残っている。フィールド・レコーディングの領域にも近い。ありがたいですよ。ありがたや節。守屋浩。

 学校教育としての音楽の授業の功罪っていうかね。もちろん「功」の方が大きい。それは十分理解しつつ、でも無くなっちゃった音階ってのはね。今聴くと音痴にも聞こえるんですけど。もったいないなっていうね。ホント思いますよ。

 でも残された音源を誰かが聞き続ける限り、音楽としての命は絶えないのかなっていう気もします。

 色々と思うところは尽きないんですけど、知り始めたばかりですのでね。とにかくまだもっと知って行く過程にあるのかなと思います。私自身としては。