ドリルというおサルさんは群れで暮らす動物だそうです。
写真で見ると表情が豊かです。
社会性みたいなものもあるみたいなんですが、そのせいなのかもしれません。
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ラジオで「父の手料理」という話題について聞きました。
ウインナーを炒めるフライパンから火柱が上がったエピソードなど。
いつも聞いているNHKラジオ第1「すっぴん!」。
リスナーの方たちからの面白いメールが多数寄せられていました。
藤井アンカーの旦那さんやお父様のエピソードも面白く聞きました。
子どもの頃の藤井アナがお父さんと大量の串カツを生産したお話など。
月曜のパーソナリティーはサンキュータツオさん。
多くの研究論文を読んでいるタツオさん。
今日は「走れメロス」を研究した中学生の方の論文を紹介してくださいました。
そうだ。あとはハーラン・エリスン。
SF小説の作家さん。アメリカの方。
おそらく私は「少年と犬」しか読んでませんが。
番組でもその短編についてのお話。
改めて解説を聞くことで私が持っていた感想とはまた別の角度から理解を深めました。
そればかりではなく、アメリカの地でSF小説の勃興から文学として深まっていく過程についても教えていただきました。ここが大変に有意義でした。
なんとなく分かっている程度でしたので良かったです。
まぁしかし今現在から過去を振り返ると、どうしても過去は圧縮されているので、「急に変わった」とか「急に新しい波が来た」みたいな印象はありますね。
転換点を迎えた時の興奮みたいなものを、私もできたら追体験したいなって思うんですけどやっぱりソレはリアルタイムに生きてない人には無理な話みたいで。
むしろそうした新しい展開を期待する声無き土壌が存在した? っていうような前後関係を理解することで納得するしかないのかなって思います。ソレはソレで楽しいですよ。
ポップ・ミュージックでいう、プレスリーは突然現れた。けど、それ以前に黒人向けのラジオやレコードなどを聴く非黒人の人たちがいた。みたいな感じになるでしょうか。
私にしてみたら例えばテクノ・ミュージックが受容されていった過程の空気というものはわかるわけで、その1点で満足するべきなのかもしれないです。
しかしココには大きな問題があります。私は一人で音楽を聴いたり作ったりするばかりで、ほかの人たちとの交流がかなり少なめでしたので、私の理解は、大きな意識としてのそれとは違うかもしれないのです。
実は、最近、ロマン優光さんのご著書「90年代サブカルの呪い」を読みました。
私は自分のことを「(90年代の)サブカル界隈に属する人間」と考えていたんですが、読んでみたら初めて知ったコトがそこかしこに点在していて。むちゃくちゃビックリ。
本には東京・新宿周辺で起こっていたコトも多いワケですが、当時、近所に住んでいた私はまるで知らなかったっていう。
考えてみたら、私の90年代の大半ってずっと一人でしたから、情報の面でも相当にズレていたのかと思いました。
マしかし、知らずにいてむしろ良かったかなって思わされるのが90年代サブカルの業の深さっていうんですかね。
けっこうな数の人が死んじゃってます。
なんか変な話になっちゃいましたけど。
下の画像は私の90年代の一面っていうんですか、ロックバンドのコンサートの切符です。
ココまでの話題とはまるで無関係ですけど。
身の回りの書類を処分している最中なんですが、いろんなものが発掘されております。コンサートの切符なんかもそのひとつ。
ほとんど忘れてましたけど、私はアンチノックでもフガジを見ていたんですね。
クラブ・クワトロの方ばかり印象に残っていましたが。
オープニング・アクトのボリューム・ディーラーズとかスーパー・ダムとか懐かしいですね。
ボリューム・ディーラーズは別の場所でもう1回見ているハズです。
ギターの方が死んじゃったみたいですね。数年前のコトになるかと思いますが。
当然ながら私が見た時の彼は相当に元気な時期だったと思いますので、残念だなって思います。
生きて、ギターが弾けるって素晴らしいことなんだって思います。