私の小学生時代〔08〕

 きのうのエントリで「富士市の原田っていう場所はザ・ドリフターズの「いかりやさん」の地元だ」というご紹介をしました。

 ここ最近のテーマである「私の小学生時代」からちょっと脱線して「原田地区」について書こうかなと思います。たいして知ってるわけでもないのですが。

 水が湧き出しています。それも1ヶ所や2ヶ所ではありません。

 平野部に接する場所でもありまして住みやすいのですね。昔から人が住んでいた場所です。富士市においては。

 私が住んでいる地区とは好対照です。こちらは絵に描いたような新興住宅地ですから。

 上のお写真はいかりやさんが青年時代に働いていた工場。製紙工場です。

 春日製紙という会社です。湧き水が豊富であるため古くから製紙産業が盛んな地区です。

 いかりやさんはここ春日製紙に勤めながら会社の仲間とバンドを結成し、ダンスホール等で演奏活動もされていたということです。

 原田から吉原であるとかの繁華街は遠くありませんし、となりの沼津に行くにしても富士市の中では比較的に沼津にも近い位置にありますので有利だったのではないかと思います。ウッドベースを抱えての移動だったと想像するのですけど、鉄道網へのアクセスも容易な場所ですので好都合だったのでは。

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 原田は他にも色々とありましてですね。お寺も多いなっていう印象です。

 下のお写真は永明寺(ようめいじ)のお写真です。曹洞宗としては市内でも古いんだとか。

 戦時中に学童疎開の受け入れをしていたらしいのです。

 下のお写真は「史跡が語る静岡の十五年戦争」という書籍の巻末資料みたいな部分からの引用です。

 渋谷区の神宮前からの疎開を受け入れていたことがわかります。

 それらは後述するとして、いったん資料を見て参りましょうか。

 原田地区内ではちょっと離れた場所にある清岩寺でも受け入れていたことがわかります。

 下のお写真です。ちょうど入り口付近が工事中でしたので駐車場の方からお邪魔してお写真を撮らせていただきました。

 お寺と富士山。素晴らしいですね。

 それと資料をもう1枚。

 岩本の実相寺というお寺は多く学童を受け入れていますね。150名。大変なものです。このお寺は市内でも有名なお寺です。

 下の画像は富士市の広報誌がかつて特集した戦争関連の紙面ですが、良いお写真がありましたので引用させていただきましょう。「広報ふじ平成13年(2001年)8月5日号」より。

 実相寺における当時のようすだということです。

 子どもたちの表情。それと女性教師の方なんでしょうか。けっこうモダンなお洋服をお召しになってらして驚きます。

 疎開は当時の東京都、荏原(えばら)区よりと書いてありますね。

 今ですと品川区の荏原地区っていうところなんだとか。

 以前にチョロっと書きましたが、あんまり深くは書きたくないんですが、ということはあんまり良い別れ方をしなかったっていうことでもあるんですけど、私が若い頃にお付き合いしていた女性。エンソニック社のESQ-1っていうシンセを持っていた人ですね。その方の住所が「大崎」っていう場所だったんですけど荏原とは接しておりまして、ちょっとドキッとします。

 映画「私が棄てた女」っていう遠藤周作さん原作の映像作品があるんですが、深夜放送で若い頃に見まして、「いやオレの場合は捨てたとか捨てられたとかじゃないから」って思って見はじめたんですけど冒頭にも近いところで、五反田の駅の上から東急池上線が発車するのを橋の上から撮影しているみたいな場面がありましてギョッとしました。池上線が発車する直下に入ってるラーメン屋さんで食事したなぁ、とか、母の日が近かったんで花束を買ってあってカウンターの下に置いて食べたとか、花束はお母さんに好評だったであるとか、「モヤシが生だ」って言った彼女。しあわせだったオレ。とか思い出しましてドキドキしました。心臓に悪い映画です。禁止するべきだと思います。

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 原田地区の永明寺に戻したいんですよ。

 今回は書くには書きますけど都合の悪いことも書いちゃいましたので読む人がイヤになるほどの長文にしましょう。読まれたくない。特に上の段ですね。情の深い人だったんで映画に出てくる人に重なってきます。もう何十年も前のことですので大丈夫かと思いましたけどやっぱり恥ずかしいですね。遠藤周作さん入魂の聖女ですのでヤバいです。禁止するべきだと思います。 

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 永明寺は渋谷区は神宮前からの学童疎開を受け入れたというところまで記述しました。

 今だと区立神宮前小学校というのがありますので、そこからの学童諸氏であったんでしょうか。

 位置でいうとかつてビクター音産が入ってたビルの近くですね。

 私はデザイナーとしての末期に「メガゾーン23」というアニメーション作品のチラシデザインを手がけたことがありまして、カンプ(見本)か何かを持って行ったことがあります。会社の原付バイクで。

 「メガゾーン23」はOVAっていいましたか家庭向け映像ソフトとして作られた作品なんですけど、好評だっていうことで映画館で数日だけ上映したい、ついてはチラシが必要だとかそんな話でした。

 ディレクターの人は映像を取り扱う部署の人だったと思いますが、元々はサザンオールスターズのビデオを作りたいが入社動機だったと聞きましたけど、アニメばかりを手がけていたようです。その後どうされたのでしょう。お元気でいると良いのですが。

 東京に限らず都会の風景は絶えず更新され続けるものであって、変わってしまうと以前の姿を思い描くことが難しかったりします。かつてはここに「ビクターの犬像」があったんですよね。

 表参道を見下ろす喫茶店がビルの中に存在していて、私も打ち合わせで1回だけそのお店に入りました。当時のビクターに所属していた音楽家の人なんかはたぶんそのお店、ひんぱんに利用したと思います。私は1回だけですけど、ビクターの人とあのお店で打ち合わせというのは今となっては貴重な体験かもしれません。

 ビクターの道を挟んだ向かいあたりの位置にはストーミーっていうお店が入っているビルがあったと思います。私がスケボーに入れ込んでいるときによく通っていたお店です。

 マそんな地区からの疎開であったと。

 もちろん戦後より前のあり方って、今みたくにぎやかではなかったんだと思います。

 けっこう激動ですよね。当時は代々木の練兵場のすぐそば。今の代々木公園を中心とする広い区域。

 こうして知っていくと、「昔の軍用地」ってとにかく広かったんですね。

 226事件での首謀者であるとか北一輝さんらの銃殺。

 終戦時には大東塾の14名が割腹自殺。伝統右翼ですよね。このあたりはルポライターの安田浩一さんのご著書「右翼の戦後史」の内容が参考になります。

 戦後はワシントンハイツができて。そこで野球チームを率いていたジャニー喜多川だったという。

 NHKの局舎も建ちましたし。

 そうだ。この文を書いているのは11日の土曜日なんですけど、NHKのラジオ番組「文芸選評」のお題は「忘れえぬ人」というものでした。

 案外、深く交わった人の記憶であるよりもふとすれ違った、しかし印象に残る人についての短歌が多かったのでした。

 私もそういうのがございまして、この機会に書いておきましょう。

 冬の寒い時期の夜にNHKのそばを歩いて原宿の駅から電車に乗ろうとしていた私でしたが、あたりにはほとんど誰もいない状況。

 そのちょっと薄暗いあたりでベルボトムのズボンか何かを履いた3人くらいいたと思いますけど、非常に声がよく出ていてギターをジャンジャカ鳴らしていたんですけど、だれも聞いていない。そこに通りかかった私。ビンビンと響いてくる歌声。とても気まずかったです。

 その時に着ていたコートが下のお写真です。

 これは目立ちます。異様なんですよね。そりゃそうだ。

 日常的にスットンキョーな格好をしていてジロジロ見られる。あるいは無断で写真を撮られる。それが珍しくなかった私であるがゆえに断言できます。

 このコートの目立ち具合は数段ほど上。イヤってほど見られます。逆に変な革ジャン着てるくらいじゃたいして見られないのが東京のあたりなんだなっていうこともわかりました。都会の風景としてはアレで案外なじんでいたんだなってことですね。

 このフェイクファーのコートは当時のギャル文化の人なんかの注目もあって困りました。困ったんで今更渋谷の駅から電車には乗れない。もう人目に立ち向かっていく意気地がない。スクランブル交差点のあたりに行けるほど神経が太くないってことで人が割合に少ない原宿駅を目指したのでした。夜であれば昼よりもガッと人が少なくなるのが原宿駅です。カッコは派手だったかもしれませんけど中身は地味なんですよね。私は。ブーツィー・コリンズ氏もそんな人だって聞きますけど。案外そうした人が多いのかもしれません。

 そんなワケなんですけどシロクマみたいなコートを着ている人間が単独でこれまたちょっと風変わりな集団の歌を聴く。その場に加わるというのはできませんでした。興味はあったんですけど。

 あの人たちは何だったんだろう。そんな私の「忘れえぬ人(たち)」のお話でした。

 私のシロクマコートは自作でありまして手縫いなんですけど、その辺のお話はまたいつか。老眼になる前ですので作業は絶好調でバンバン進みました。懐かしいです。

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 以上、戦時下の子どもたちが東京も中心部から静岡の富士市であるとかの地方に移って住んでいた。というお話(と余談)だったんですけど、逆のお話もいたしましょう。

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 例の富士宮の少年戦車兵のことなんかを調べるうちに「人穴(ひとあな)小学校」のホームページにたどり着きました。特に関係はなかったのですけど。しかし私にとりましては自転車で通りかかることもあって見慣れた小学校です。

 位置的には山梨県との県境に一番近い富士宮市の小学校だと思います。以前はもっと山梨に近い小学校もあったんですが休校になっています。

 「人穴浅間神社」というのも存在していて、富士山が「世界文化遺産」に登録された際の構成資産のうちのひとつです。富士講の修行が行われる場所だったそうです。その後、廃仏毀釈や軍用地としての接収などを経て昭和20年代の後期に今の形になったと富士宮市のホームページで学びました。

 今年は違いますが富士宮で「クマが出た」って場合、その多くが人穴での出来事であったりします。そんな場所です。朝霧高原のちょっと手前っていう私個人の認識ですけど地元の人にとってどうなのかはわかりません。

 女優の工藤夕貴さんのお店がある場所っていうと親近感が湧く方もいらっしゃるかもしれません。

 お父さんの井沢八郎さんもおそらくこの近くにおウチがあったことがあったんじゃないでしょうか。すごい昔のワイドショーでみたんですけど。わりと開けた自然に囲まれているといった環境でありまして、玄関に三色旗がはためいていました。工藤さんは違う宗教みたいですけどやっぱり日蓮系ではあるみたいで。そういう人はあのあたりが好きなんでしょうか。ここが疑問なんですよね、疎い私としては。やっぱり大石寺なんでしょうか。別に身延山でも構わないような気がしていてその辺の加減がわかりません。まぁとりあえず非常に良い場所です。私はもう大好き。昔はオウム真理教とかありましたけど、今は静かですので自転車で走っていると気持ちが広くなります。

 朝も早い時間に通りかかった時に小学校の校門のところで見守り活動をしていらっしゃったおじさんと「おはようございます」と声を交わしたことがあったのですけど、今もそういう活動は続いているかな、とか思います。

 そんな人穴小学校の学童諸氏がですね。修学旅行で東京に行った際に千駄ヶ谷小学校にお邪魔して歓迎を受けた。交流したという記述を見ました。ホームページ上で。しかしこれは驚いたんじゃないですかね。環境が違いますからね。

 私は千駄ヶ谷5丁目に住んでいたことがある関係から土地勘がありますが、人穴と千駄ヶ谷。神宮前とも接する地点ですけど、学童諸氏におかれましては「こりゃスゲえ!」ってなったんじゃないでしょうか。興味があります。

 下のお写真はかつて千駄ヶ谷小学校の近くのお店で買った青いロンジャンです。

 たまたま入ったお店で見かけて購入しました。

 なんかお店の人の話では買いたがっている人が複数いてフラッと現れた私にはちょっと売りたくない感じもありましたがサイズ的にもよくて、デザイン的にも装飾が少なくて飽きがこないかなと思って買ったのでした。深みのある青色も気に入っています。問題はあんまり着る機会がないんですよね。毎回言ってますけど。かつての私は真夏でも革ジャン着ているタイプでした。この青い方じゃないですけどね。これはもう私が東京を離れるちょっと前とかに買いました。あんまり着込んでないです。

 「ロンジャン」って一般に浸透している名詞なんでしょうかね。

 ファッションに関連する知識がない私ですのでわかりませんけど、パンクロックが好きな人の間では「ロンジャン」で通じると思います。

 「ロンドン系の革ジャン」っていうような意味です。

 より実態を表す表現としては「イギリス系の革ジャン(ライダース)」なんですけど、「イギジャン」よりも「ロンジャン」の方が言いやすいとか、そんな感じなんでしょうね。

 一般的によく見るのは「USタイプ」と呼ばれるんじゃないかと思います。

 マウンテンのレスリー・ウェストさんが着ていたUSタイプの革ジャンの幅というか身頃というか広くて広くてびっくりしたことがあります。あの体格に合う革ジャンもあるんだっていう驚きでした。

 私がお写真の革ジャンを購入したお店は神宮前でした。住所としては。千駄ヶ谷小学校とは通りを挟んで向かい側になってしまいます。昔、カエルカフェっていうお店があった近所です。

 カエルカフェというのは、サンプリングで音楽を作る人に向けて音の素材が入った音声CDをたくさん作って売っていたお店です。このあたり懐かしい話題ですね。読んであぁそうかって理解できる人も少ないと思いますが。

 鳩森神社の東側の道を下って行くと坂の途中に自転車屋さんがあったんですけどもうこの辺りもすごく変わっているようでネットで見る私には全然わかりません。さらに古い話になると非ッ常に恐ろしい外観をした廃屋があったんですけど、あれがなくなったのっていつのことだったんでしょうか。

 これくらい長くしたら読む人もいないかなと思いますので終わりにしましょう。ありがとうございました。