今日は「校歌」のお話です。小学校の校歌です。
上のお写真は私が通っていた小学校の正門近くにある歌碑です。
歌詞などが刻まれています。
近くに寄ってみましょう。
作詞者と作曲者の名前が分かると思います。
それぞれ大岡信(おおおか・まこと)さん、湯浅譲二さんです。
これはビックリ。
湯浅さんは日本の現代音楽の作曲家であり、私の好きな音楽家。電子音楽も残しています。ホワイトノイズのイコン。ボイセズ・カミング。オートノミーですよ。
私は小学生だった6年間を湯浅さんの歌を歌って過ごしていたのか……と、この歳になって気付きました。感激です。
上の画像は卒業文集に載っていた楽譜です。
逆算したらおそらく湯浅さんが42歳くらいの時に依頼されたんじゃないかと思います。
楽譜の読み方を私はほとんど知らないんですけど、楽器を始めた成人後にそれなりに楽譜に親しむことになり、この程度のリズム譜ならおおまかに読むことができます。合っているかわかりませんけどキーはGメジャーです。
メロディーの区切りと1拍アタマが重なっていないことに驚きました。ちょっとシンコペみたいな感じがある。
非常に心当たりがありますよ。中学生になった時に期待していたほど校歌が面白くないと感じたんですけど、たぶんここですね。小学校よりも中学校のほうが校歌は技巧が凝らされているのではと無意識に期待していたのです。
今の私が当たり前の曲も好きではありますけど多層的な構造を持った曲がより好きだっていう起因は多分ここですね。
サーフィン・ミュージックとかホットロッドからの影響じゃなかったんですよ。当たり前だ。小学校でさんざん歌った体験からなのですよ。これはしかし湯浅さんに感謝です。
メロディーの方も素晴らしくて、ちょっと高台というか富士山のすそ野の茶畑の爽やかな香りをつっきって吹き抜ける児童の歌声というような新鮮な朝みたいなメロディーだと思います。
ちょっとだけある休符も良いと思うんですよね。いつも自分達が歌っていたのとは違っているのを発見しましたが、まぁそこはそれですけど。
歌メロ2小節目の三拍目をお友達みんな8分音符とかもっと短めな感じだったかもしれませんけどタメて続くメロディーのこの1拍突っ込んでる感じのちょっとスリリングなトコを無意識に強調していたと思います。作曲者の意図から離れて。朗々と歌って欲しかったんでしょうね。まぁ子供なんて楽譜は見ないからね。そんな感じで歌っていました。もしかしたら音楽の先生が「みんなそういう風に歌うけど楽譜は違うよ」と言ってくれたことがあったような気がします。思い出しました。ここだったんでしょう。当時はどこのことを言っているのかもわかりませんし「ぼくたちの歌だ」みたいに思っていたのもあったと思いますけど「良いのに……」って反発したんだと思います。
いやー。懐かしくもあり、そしてまた自分の趣味嗜好に与えた影響の原点みたいなものも確認できてよかったです。やっぱり子供時代に触れる文化ってその後に影響及ぼしますね。大事ですよ。自分の体験に照らしますと。
作詞の大岡信さんは三島市の人なんで、その絡みからなんでしょうか。富士市から見るとおとなりの沼津市のそのまたおとなりが三島市。という位置関係です。
「大岡信賞」っていう賞があるんですけど、受賞者はともに詩人である、日本のバンド、ヒカシューの巻上公一(まきがみこういち)さんと、佐々木幹郎(みきろう)さんです。佐々木さんは以前に当ブログでもちょっと書いた「てんでばらばら~ヤギ汁の未練」の作詞をした人です。ちょっとつながったかなという気がして、この点でも私はうれしいなって思います。