甲府星人帝国〔36〕

 釜無川(かまなしがわ)と笛吹川(ふえふきがわ)というふたつの川が合流して富士川になるんですけど、その合流地点のあたりを鰍沢(かじかざわ)っていうらしいです。山梨県の甲府盆地のはじっこになります。地名としてとても美しくて私は大好きです。

 浮世絵の「鰍沢」というのを調べていただくとわかるんですけど、本日のイラストはその絵を参考にしました。わりと有名な絵だと思いますが、これが山梨県の風景を描いたものだと知っている人はどれくらいいらっしゃるんでしょうか。私は調べてみて初めて知りました。

 鰍沢からはおそらく富士山は見えないと思うんですけど、前にもチョロっと書きましたけど浮世絵みたいな大衆向けの絵の場合どうしても入れざるをえない題材っていうのがあるんですよね。私も完全にそっち側のイラストレーターですので右にあるものを左に描くのなんか序の口。見えないものだって描いちゃいますよ。そういう職業ですね。

 本日のイラストではUFOが大きな丸太を投下して地面を“ついている”ようすを描きました。

 以前に聞いたラジオ番組「ニッポン時空旅」における「地搗き歌(じつきうた)」。「おたかさん」という美人の女性が出てくる歌。それはどちらかというと釜無川の方なのかなと思います。信玄堤があるという付近なのかもしれません。

 注意が必要なのは「信玄堤」や、きのうのイラストで描いた「聖牛」。それらと「地搗き歌」が歌われた時期はかなり間隔があります。明治以降の歌であるらしいんですよね。

 本日のイラスト作成は録音しておいた「ニッポン時空旅」の当該回を聞きながら進めました。

 番組でも触れていましたが、静岡に伝わるそうした護岸関係の労働歌にも「おたかさん」が出てくるので実在の人物から伝説的な人物へと変質していったこともわかります。

 おたかさんは私の住む富士市から山梨県へ至る「大月線(139号線)」の終点である大月でその生涯を終えた。10人の子を作ったということなんですが。いつか自転車で大月線全路線を走ってみたいものです。正確に言うと実のところ、大月線の終点って大月よりもちょっと奥の方に入ったところなんですけど、ソコはソレなのです。

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 ラジオ日記です。

 いやー。きのうの夜の「クラシックの迷宮」がすごかったです。

 西村朗さんの追悼番組。

 割とこの番組の場合、追悼はよくやりますけど、1周年とかのキリの良い時期にすることが多いかなって思うんですが、西村さんの場合はそういうんでもなくて。おそらくNHKと西村さんの関係。それと解説の片山杜秀さんと西村さんとの関係というのもあるんでしょう。西村さんが飛躍を遂げた1979年のコンサートをまだ若い片山さんが聞きに行って感激したと知って驚きました。当然まだ西村さんも若かったわけなんですけど。

 私にとっての西村さんっていうのをまだまとめてなかったですね。

 これは年代的なものです。西村さんって言えば「ケチャ」。それくらいしか知らなかったんですけど、番組「現代の音楽」を聞くようになって、さらに深く知るうちに「西村さんって今は大変な先生かもしれないけど、汎アジア的な視点とか東洋思想とか、そういうのって私が子供の頃の年上の若い人たちの先端的な潮流とかに重なるものだな」と思えてきて「きっとそういう知の領域に反応し創作に反映していった人なんだ」。合っているかわかりませんが、私の中で仮想の西村像が出来上がりました。「当時のカッコいいお兄さん達のうちの一人なんだな」っていうことですね。そういう西村さんがかなり若い頃から現代音楽の発展を見ていて、日本の作曲家に関して言えば、憧れの対象から、学校で教えてくれる先生に移り、さらには同業者になっていったわけで、要するに「そういう履歴を持った人が見た現代音楽だったりそこに連なる作曲家。それらを見てきて語っている」という感じで前提がハッキリするので、私が現代音楽というものを知る上において良いガイドとなる人でした。今の若い作曲家になると番組でも明らかになっていった通り「学校に入るまでは調性音楽それ一辺倒だった」みたいな人が多いみたいで。それは仕方ない面もあると思いますし悪いこととも思えませんが、やっぱり10代も早いうちから聞いてきたよっていう人とは語る内容も違うでしょう。もっと語ってほしかったですね。私みたいな門外漢であり、であるにもかかわらず興味を持っている人間にとっては。しかし最終的には亡くなる前に残した「作曲家が譜面に残した音のひとつひとつまでに注目してほしい。そこには意味がありますよ」っていうのが一番伝えたいことだったのかなという気もしています。それと確か武満徹さんの回で「私もピアノに向かう時は厳粛な気持ちで相対し、響きの探求をしています」みたいなことをおっしゃっていたのも印象に残っています。

 きのう聞いた「クラシックの迷宮」に戻します。

 この機会を逃したらちょっと放送できないような長いラジオ音楽劇を放送してもらえて大感激。これが予算的にもけっこう大きかったということでしたけどとても充実した、研ぎ澄まされた仕上がりで聞き応えがありました。役者さんの演技も重厚でよかった。西村さんのつけた音楽にしろ演奏にしろよかった。50分ほどがあっという間。

 以前に「クラシックの迷宮」では黛敏郎さんがまだ若かった時に残したラジオ音楽劇を聞きましたけど、どちらも素晴らしかったと思います。

 あえて言えば題材が第2次世界大戦も終盤という時期を扱った分、きのう聞いた曲に入り込めたかなと思います。

 銀色に光る戦闘機の機体。

 これはおそらく私の住む富士市から見て富士川の対岸、日本軽金属という会社があるんですけど、そこでつくられたジュラルミンのことも含まれるのだろうなと思います。

 ちょっと前の当ブログにおいて富士宮市の図書館で静岡県における市民運動、15年戦争、それと少年戦車兵、などなどの本を見てきましたみたいなことを書きましたが、知らなかったのでビックリしたんですけど、山梨の身延町のあたりから地下トンネルを掘って、その水力で発電した電力でアルミを作っていたというんですね。

 日軽金の発電施設というのは他にもいくつかありますし、アルミはとにかく電力を消費するというのは知っていたんですけど、相当な距離のある身延町からの地下トンネルがあるとは知りませんでした。よくそんなことしましたね。

 その建設に大量の当時の朝鮮人を連行というか募集という名の下に実態は人数の割り当てを定めて「これくらい連れて来い」っていうことだったのだそうです。

 そんなことも思いながら聞きました。なんともいえないですよ。私としては富士市の南部にあった飛行場の建設に中国人が多く使われ少なくない人の命が失われたそのへんを詳しく知れればいいなっていうくらいだったんですけど、昔の日本。中国人とか朝鮮人を酷使しすぎ。っていうのがわかってちょっと言葉も出ません。一般的な知識としては知らなかったわけでもないんですが、具体的な県下における地名であるとか連れてこられた人の概数を知るだけでもちょっとこれはどうなんだっていう気がします。県内で合わせると万のオーダーらしいんですよね。少なくない人が亡くなったりしたと。もちろん日本の人の死者数であるとか、勤労奉仕の実態、あと戦時下の反戦活動ですね。知りませんでした。モロモロあわせて知ったわけなんですけど。

 おぉそうだ。私の住む富士市が発行する広報誌に興味深い記事を発見しましたので載せておきましょう。

 戦後における占領軍からの被害に対する補償への呼びかけなんですね。「広報ふじ」昭和44年、1969年の3月5日号からの引用です。こういう給付金があったんですね。事務所が御殿場市っていうのもまたリアルです。

 思うんですけど日本国のことを世界でもとても長い歴史を持つ国。みたいにいうことがありますけど、あのへんの人たちって占領下にあった日本のことをどう位置付けているんでしょうか。連続した国体として扱ってはいけないんじゃないかっていうのが私の意見なんですけど。なんか都合良く解釈されてないかなって思います。そうした断絶を覆い隠したいという気持ちが戦前戦中の気風であるとか教育勅語をありがたがる風潮につながるんじゃないかっていう疑いも持っています。「勅語」の意味を明らかにすればそもそもおかしいことを言っているのは誰にもわかると思うんですが。無理がありすぎます。「いいことを言っているから良い」っていうのとは違う気がするんですよね。

 再度、番組「クラシックの迷宮」に戻します。

 そういえば片山さんは「天皇なき愛国活動」についておっしゃってました。いや戻しますけど。

 他に聞けた曲としてはNHKの電子音楽スタジオもの。嬉しかった。これが私は大好物なので。電子音に偏らずにテープ操作であるとか数学的な試みを試しやすい環境であるスタジオワーク。響きを確認できるという面において。それらの試みはオーケストラに移植する前段階だった。西村さんの目論見ですね。そうした片山さんの解説はとても納得のいくものでした。

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 他にもラジオを聞きました。

 「伊集院光の100年ラヂオ」。炭鉱に関わる労働者向けの番組について学びました。

 これが終戦というか敗戦から2年目の放送の録音テープで、よく残っていたなと思います。

 古い録音を聴いていくという番組ですけど、古いものをたどると必然的に占領下の日本のあり方、暮らしの実相も知れて良いですね。実感が湧いてきます。先週の再放送では聞き逃して悔しい思いをしていた戦災孤児を迎え入れたご家庭のインタビューが聞けてうれしく思いました。伊集院さんがいつわりの涙をこぼされていたということですが私は本心からの涙がこぼれてきて止まりませんでした。