TROMS〔23〕富士塚・鈴川

 本日のイラストは富士山の妖精みたいなヒトが「石が積まれた小山」の上に座っている絵です。ちょっと怒ってますね。

 うしろにはスペクトルマンっぽいヒーローと怪獣が戦っているようすを描きました。著作権を意識して、あえて実際の画像を参照しないで描いたんですが、ウマくかわせておりますでしょうか。

 背景として石油基地というか石油タンクが並んでいるようすを配置しました。これらは「田子の浦の油槽所」です。

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 今日から数回、「鈴川(すずかわ)」について記述していこうと思います。

 すでに何回か書いておりますがヘドロの原因企業として名前が挙がることも多い「大昭和製紙・鈴川工場」が存在した区域です。

 位置的に言うと「田子の浦港」の東側です。

 「石が積んである小山」の説明をします。

 これは「鈴川の富士塚」と呼ばれるものです。

 山岳信仰としての対象たる富士山を象徴するものです。江戸時代に流行したようです。

 東京のソコカシコ、あるいは山梨県に「富士塚」と称する小さな塚が残っています。

 私がかつて暮らした東京都内といいますか新宿、渋谷でいうと成子坂下付近の神社にありました。税務署に行くときに私が通っていた道の脇でした。それと千駄ヶ谷の将棋会館の向かいにある神社ですね。こんな調子ですからけっこう点々とあるんだろうな、今でも。って想像しています。

 古くからあった古墳を転用して、より富士山っぽく造成したっていうケースもあるんだとか。

 以上はすなわち「富士講」です。

 修験道の盛り上がりよりも時代としては後になるみたいです。

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 妖怪なんかのビジュアルイメージが確立して、“おそれ”という位置から“物語上のキャラクター”みたいなものに変質、浸透していったのも江戸時代だっていうことなんですけど、ザックリ言ってお手軽なマインドっていうのは江戸の頃からなんですね。信仰にしろ。そんなふうに捉えているんですが私は。

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 富士塚が鈴川の地に据えられたイキサツについては江戸時代の初めには東海道の宿場だったのが関係しています。吉原宿です(後に内陸に移転)。

 江戸の町から歩いてきた旅人が宿に泊まる。起床して海で身を清める。

 石を拾ってきて富士塚に積んで拝む。

 富士山へ向けて歩き出す。っていう流れだったみたいです。

2013年に撮影したものです

 富士塚から見て真北に位置する富士山ですが、当時の富士登山の道のりとしては、直進というよりは斜行する感じですね。

 富士宮市の奥の方にある村山浅間神社を目指したみたいです。当時は。今でも登山道としては「富士宮口」からって感じですけど、実は折り入ってお伝えしたい大切なことがございます。

 我が富士市としましてはですね。断固あくまで北進しろと、独自のルートを設定しております。つまり海岸線に位置する富士塚から富士山頂まで。全部を歩けという主張。3776メートルを制覇してこそ富士登山だという趣旨でございます。これは大変。疲れそう。

 大渕(おおぶち)街道という私が住んでいる直近の古い道をたどりましてですね。この道は昔の林業の道ですので、富士山の木々を伐採して一直線に降下。オラオラ的に港の貯木場に丸太をザッブーンですよね。そこから船で運んでおったという今は昔の風景があったワケです。そうした富士の修験道ですとか宗教的な来歴ゼロ。カネカネカネの経済的成り立ちの道をたどって富士山を全部丸ごと徒歩で登りきって欲しいというのが我が富士市の意向なのです。いっときますけど古い道ですから狭いですし、土地のクルマばっかりですから飛ばしてますよ。海抜600メートルくらいまではそんな感じです。歩いていると自分が何をやっているのかわからなくなるかもしれませんが気をしっかり持って歩んで頂きたいです。

 海抜1,000メートル付近の林道に突き当たってから、ちょっと西に折れて富士宮市のキャンプ場にイヤイヤながら宿泊してくれってことになっています。出来うる限り「富士市を通れ」ということです。くわしくは「ルート3776」でネット検索してください。以上余談でしたが。

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 現在の「鈴川の富士塚」はコンクリートで固めたキレイなものになっているんですが、昔はもっと漠然とした大きくコンモリとした盛り上がりだったようです。

2018年に行われたシンポジウムにおける資料から。右の肉筆画の描写が参考になるのではと思います。
こちらも同じシンポジウム資料から、大高康正氏の蔵する画像より

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 たびたび出てきますが、書籍「鈴川の歴史」によりますと、「鈴川の富士塚」は昭和40年代からの10年間ほど荒廃していたようです(310ページ)(361ページ)。

後述しますが石灯籠(いしどうろう)と祠(ほこら)が確認できる画像。当時の私としてはお花と猫メインのつもりでした。2013年撮影。

 石積みの上に位置する小さなホコラ。これは小さいながらも浅間神社という位置付けなんだそうです。

 このホコラの行方が分からなかった。

 それと石灯籠(いしどうろう)があるんですが、ふたつあったうち1基が行方不明だった。

 昭和40年代には単なる子どもの遊び場という位置付けになっていたらしいのです。

 富士講の衰退、さらに高度成長期が重なり、加えて核家族化。人の心のありようの変化って申しますか。この当時は味覚にしても今よりもっとケミカルむき出しって時期ですからね。関係薄いかもしれませんけど。

 荒廃した富士塚を再建したのが昭和51年。1976年。コンクリートで造成して、ホコラや石灯籠を新設して今の姿になったと、そういうイキサツなんだそうです。(古い写真を見てもホコラの姿が確認できませんので、もしかしたらホコラが失われたのは私が思っているよりも前の出来事なのかもしれません)

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 富士塚から田子の港まで直線距離で400メートルくらいありますが、ヘドロの処理についての枠組みが決まったのが昭和46年。1971年のことです。

 高度成長を経て自然環境や土地の文化に目が向くようになるまでかなりの年数が必要だったということになるのかと思います。

 田子の港がキレイになっていくのを見て、富士塚を再生する気持ちも芽生えてきたのかもしれないね。っていうお話でした。