フクロオオカミ氏が住んでいる村の住人に「雲南キンシコウ」さんを加えました。
今まで練習してきた動物各位を村に移住させていこうと思います。
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ラジオ日記なんですが、土曜日お昼前の番組NHK・FM「世界の快適音楽セレクション」について記しておこうと思います。
今日はレジデンツをはじめとして、ちょっと変わった音楽もかかりました。
マーク・リボーさんのイイ具合にヌけた。しかし狙いをハッキリ打ち出した素晴らしい演奏。初めて聞きましたが唸りました。
アート・リンゼイさんの歌唱で、T・REXの「チルドレン・オブ・レヴォリューション」のカバーも聞けました。
ゴンザレス三上さんのコメントとしては「ラフに歌ってもアート・リンゼイは品があるね」みたいな感じのもの。
ココは非常に大事な点で、私もその通りだと思いましたが、「品のある。無し」について書いておきたいです。
ものゴコロついて以来、一貫してギターの音が汚い音楽を聴き続けてきた私ですが、実のところ歪んでいればなんでも良いワケじゃないのです。
「これは品が無い」っていうのがありますし、そういうのは聴けないです。
まだ私としてウマく言える表現を見つけ出せていません。非常に微妙なところですけど、聞いてみて判断に悩むことは無いです。私なりに。
チャーリー・ハーパーとかレミー・キルミスターとかウェンディー・O・ウィリアムズとかの、かなり悪声系のファンである私が思う「品のあるなし」とは何なのか? ヘリオス・クリードとかの凶悪そのものなワウ・ファズ・ギターが好きな私が思う、歪んでいるが品の無さとは無縁だと感じる境界線はドコにあるのか。難しいところですけど、もうちょっとよく考えていきたい。
案外コレは、もうひとつの視点を加えると見えてくるのかもしれません。
まさに今日聞いたマーク・リボー氏の演奏における“笑い”とか“隙(すき)”っていう要素かなという気もしています。息苦しさは無いよなっていうか。
品が無いのはネトネトしてる気がするんですよね。
関係無いですけどスティーヴィー・ニックスさんの歌は私、あんまり好きじゃないんですけど、しかしこれは品のあるなしではなく、フリートウッド・マックおよびニックス・ソロの音楽性にほぼ興味が無いというだけです。
「興味のあるなし」と、「品のあるなしから来る好き嫌い」が隣り合う場合も多々あるので慎重にあたる必要があります。ちゃんと分けて考えないと。
また別の方になりますが、私は大貫妙子さんの音楽が苦手でまさに息苦しくて聞けないんですが、最近、無果汁団っていうバンドの「モン・シェリー」という曲を知りました。
私なりに「大貫妙子系に連なる音楽ではないか」って思うんですが、しかし非常に気分良く聞けることに驚きました。
おそらく私にとってちょうど良い“窓”が空いてるような気がする。多少の遊び心だったり。
ポケットからドーナツやチョコを取り出してそこで食べ始めても大丈夫そうな音楽と思います。
不思議です。私の苦手な「大貫妙子感」やら「YMOファミリー感」に満ちているように思えるのにその一方でスゴくイイ。
この件から考えられる「品のあるなし」はもう意味がなくて、どちらも品はある。
大貫さんの音楽なんて品があるを体現しています。私に合わないだけで。
こう考えていくと私が享受できる音楽の幅というか範囲が見えてくる気もして、興味深いです。
色々と聞いてきましたが、決して幅が広いワケでは無い。
狭くもないよな、と自分では思っているんですが。