【曽我物語シリーズ】悲しみロード・地図

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 上の地図はヨコ幅が3キロくらいの範囲になります。

 これまでの地図に比べると、かなり近接しました。
 私の地元も地元。
 地名でいうと伝法(でんぼう)周辺です。
 厚原(あつはら)から鷹岡(たかおか)の境界線あたりまでという風にも言えますか。

 ご覧のように神社やお寺、それら名所旧跡が一本の道の両脇に並んでいるといった様相です。

 中には後の時代になって少し移動した、という施設もあります。車道の拡幅なんかの関係で。
 旧跡であったり、石碑の位置などにはよくある話です。

 そしてこの道なんですが、以前の当ブログでも出てまいりました「鎌倉街道」。その道なんだそうです。(以下、便宜上「トラ悲しみロード」という表記も使用します。)

 私は最初、この道が「鎌倉街道」と呼ばれていると知った時、「どうせこの辺の人たちのコトだから、勝手に「鎌倉街道」と呼んで喜んでいた。それだけじゃないのか?」って思っていました。
 市が発行している広報誌の歴史ミニミニコーナーみたいなところで読んだんですよね。

 かなり地味な道ですので、いくらなんでも「鎌倉街道」はナイ。
 バレないと思って大きく出た。
 そう思っていたのです。

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 しかし同時に地元・富士市の東側に位置する別の道、「根方(ねがた)街道」が鎌倉街道の一区間をなしていたと知り、思いを改めました。

 根方街道は富士市と沼津市をつなぐ古い道ですが、これまた幅が狭くてクネクネとした地味な道です。
 愛鷹山(あしたかやま)の根元を沿っていく感じなんですが、両脇に住宅がビッシリというアリサマで、ところどころ思い出したように拡幅してあったりしますけど基本的には片側1車線。わりとキチキチ。

 後の世の東海道に比べるとかなり内陸を行く経路です。

 昔の街道って言ったら私なんか東海道しか思いつきませんし、そっちはね。今見ても昔の幹線だったんだな……、っていう風情が残っている。宿場な雰囲気。
 そんなワケですから、まさかあの根方街道が重要な役割を演じていた時代があったとは。おどろきです。

 しかしですよ。
 根方街道が鎌倉街道としてアリなら、接続する「トラ悲しみロード」もアリなのでは。街道として。

 「ウチの地元のおめでたい人たちが身内で勝手に「鎌倉街道」を自称して喜んでいただけではなく、身元の確かなちゃんとした道なのかもしれない……」。カンのにぶい私もそう思うに至りました。

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 ネットのウィキペディアを参照すると、鎌倉街道の道幅については馬1頭ずつがすれ違えれば、とりあえず良い。みたいな感じでしたので、やっぱりウチの地元の地味な道も鎌倉街道と言い張っても無理はない、のかもしれません。