P.K.ディック『流れよわが涙、と警官は言った』再読

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 昨日の疲れで、今日は寝てばかりいました。
 おとつい出来上がったデータをサーバに上げて、担当H氏にメールでお知らせしました。副読本の仕事です。あとは資料画像の整理をしたり。
 それと、おとついくらいから読み始めた小説を読み終えました。
(以下、長文の読書感想です。)


(ネタバレの危険があるので、いずれ読もうと思っている方は避けるが無難です。)
 ブログは不特定多数の方の目に入る可能性がありますから、特に個人的な事などについてはあまり書かないようにしているのですが、以下、それに当てはまらない部分があるかもしれません。
 『流れよわが涙、と警官は言った』。この作品は私が初めて読んだディックの小説です。
 今でこそ、1度も会った事も見た事も無いディックについて知ったような事をうっかり書いてしまうような私ですが、その著作を読むまで殆ど知っている事はありませんでした。わずかに映画『ブレード・ランナー』の原作者であるという事だけ。高校生の頃にテレビで『ブレード・ランナー』を見た訳ですが、とてもカッコ良く、また美しくもあったので、映画に描かれた世界に心酔していました。いつか原作も読んでみたいと考えていました。それと当時良く遊んでいたバイト仲間にして元バンドメンバーの方、その方がディック・ファンで、その人の影響も否定出来ません。この人に教わった事、思い出はたくさんあって、いずれまた当ブログにて触れる事があると思います。
 そんな訳で時間を20年ほど巻き戻します。私は20代前半。すでにフリーのイラストレーターを名乗っていましたが、仕事はあったり無かったり。お金も無く、建設現場のアルバイトが主な収入源でした。
 夢を追う若者には非常に良くある話だと思いますが、自分には力がある、何か出来ると根拠も無く信じる反面、心はもろく不安定、訳も無く高揚してみたり絶望してみたり。そんな非常に良く居る有象無象の一員であった私を支えてくれた存在に一人の女性がいました。その女性と別れた次の日に私はディックの小説を初めて読みました。
 非常に心許ない状態で読んだと言っていいと思いますが、それまでが非常に密接なつながりであった為に、まだ今ひとつ現実感が無い、別れたという事実を受け止められない状態というのが実情だったと思います。以上が当時の私の生活および、精神状態の説明となります。
 『流れよわが涙、と警官は言った』。この小説は特殊なドラッグが1個人の脳に影響を及ぼし、その影響がそこにとどまらず周囲を巻き込んで現実をゆがめてしまう物語です。
 ディックの小説、殊に長編小説にはこの類の「ちょっと現実にはあり得ないドラッグの話」が多い訳ですが、そういったギミックを利用してディックが主に語りたい事は、たいてい愛についてです。更にこの作品では愛する者を失った嘆きに力点が置かれています。
 この小説をディックが書いたきっかけは、実際にディックが愛する人との別離を経験した事だそうです(ただしこの人、生涯で5回結婚してます。それに留まらずしょっちゅう誰かに惚れたり別れたりの連続。しかしそんな別離のプロ(?)でも、この時の別れは相当にツラかったようです)。私小説的なお話は他にもあるディックですが、この作品では開き直ってほぼ自分の思いのたけをぶちまけたとか。かなり思い入れがあったようで自分が納得するまでに第六稿、どうもその後にも手を入れたようです。かなりの早書きとして知られるディックは2週間ほどで1冊仕上げる事もあったようですが、この作品には数年かかったようです。
 つまり恋人と別れたばかりの私は、愛する者と別れるという事について数年にわたって練りに練った作品と正面衝突してしまった訳で、これは良かったんだか悪かったんだか。しかし、愛について語るというのはすなわちディックの本領だと思うので、その真髄に最初に出会えたという意味では良かったのではないでしょうか。ディックについて読めば読むほど「SF」というフィールドを借りた恋愛作家ではないかというのが長く私が信ずるところのディック像です。
 もっともこの作品を手に取った時の私は知識ゼロですから、ちょっと気になる題名の作品を選んだに過ぎません。『流れよわが涙、と警官は言った』。非常に印象的なタイトルです。しかし本当は『ブレード・ランナー』の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読みたかった私。その本屋に置いてなかった為、次善の策として選択したのが本書だったのです。
 ディックの思う壷であったかは分かりませんが、共振するところ大だったようで、これから先の私はずっとディック的ワールドの中に魂の一部分を置いているような気がします。私の絵をご覧になって頂けた方には、なんとなく感じられるかもしれませんが、本来の私はハッピーエンドを愛する、ごく普通の読書人です。そこへバッドだったり、どちらとも言えないホロ苦い系の筋を持ち込んだのがディックだと思います。思い出しましたが、つい先日亡くなってしまった著名SF作家のJ.P.ホーガン。私は彼の『創世記機械』なんかが好きでした。ディックと出会うまでは…(一応お断りをしておきますがホーガンは素晴らしい作家です。むしろこのブログを若い方が読む事がありましたらホーガンをぜひお勧めしたいくらいです)。
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 主人公の男性は、非常に有名な歌手で歌がうまく、また性的魅力に溢れた人として描かれます。非の打ち所の無いエンターティナーでありタレントである訳です。しかしこの人は罪な人で、他人が自分に注ぎ込む愛情がイマイチ伝わらない人なんですね。というか愛というものがそもそも良く理解出来ない様子さえ受け取れます。
 お話としては、この主人公に他の登場人物がその人なりに自分が信じる愛について語るという体裁をとっています。
 彼らが語るエピソードはどれも胸を打つものです。特にラストの警察本部長がとる行動と独白は淡々と描かれますが、殆ど壮絶な激情の発露と言っていいかもしれません。実に良いこのくだりが、本書のタイトルにつながります。そうなんですね。このお話の一応の主人公は有名エンターティナーの男性なのですが、それほど出番の多くない警察部長こそが真の主人公と言えるかもしれません。
 ですが、ここではあえて別のシーンにも注目したいのです。それは主人公が昔関係にあった女性と語る場面。ここにもそれなりのページが割かれていてラストにつながるピークと見て良いと思います。女性は、昔は美しかったものの、その後の享楽と不摂生ですっかり衰えてしまった女として描かれます。
 ここで愛する者を失った悲しみについての女性の考えが述べられます。ディックとしては極論するに、ここさえ読んで、読者に受け止めてもらえれば満足だったのではないのでしょうか。
 構図としては、外見的には非常に魅力的な、しかし冷たい心を持った人間が聞く立場。それに対して美貌を失ってはしまったが、とても熱い心、ほとんど真心と呼んでしまいたいようなそれを持った人間が訴えかけます。
 こういった対比というのはディックの小説にはしばしば見られるのですが、いつもとはかなり事情が違っています。たいていは愛する者が主人公で、パッとしない中年男であるというのが頻出パターン。それに対してヒロインはとても美しい年若い女性。しかし心はとても冷たい。少女に恋い焦がれる中年男性。しかしその恋は理解されないみたいな。
 いつも恋する側の心の動きメインで描かれるディックの小説ですので、そう言った意味ではこの小説は興味深いですね。恋される側の心情は一体どうなっているのだろうというのはディック読者として漠然と感じていた疑問であり、謎でした。
 ディックはたいていの場合、多弁な訳ですが、この小説は特別に濃度が濃いと言えるでしょう。いかにして自分が言いたい事だけに絞ってお話を進行出来るかに挑戦したのではという印象すらあります。この作品の後に「暗闇のスキャナー」というこれまた悲痛なお話を書く訳ですが、まさに本書は「暗闇のスキャナー」の前にしか書けない作品だと思います。自著について真顔で「どうか、手を伸ばして、その下にあるわたしの核心、愛に満ちた核心に触れてほしい。」と言うディックですが、この作品も間違いなくそれ系です。立派です。
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 なんか人に読まれる事を前提とするブログにはそぐわない内容だったかも知れません。もっと私個人に引きつけて書きたかったという思いがあります。
 人の目に触れる事を考えてしまうと、自分個人としての思いというよりも、紹介者としての立場が浮上してしまうようで。
 職業的にもクライアントの伝えたい事を十二分に表現する事に腐心する事がもっぱらですので、より良く伝わる為に若干面白くしたくなったり、良い部分を強調したくなったり。しかしある作品について何か文章を書くという事はこういう事なんだと思ったり。
 おそらくこんな風に思うのもディックの小説が好きだからだと思う次第でありますが。
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(誤った引用、その他細かいミスがありましたので23日に少し訂正しました。)